月夜にまたたく魔法の意思 第6話5





 腕時計を見ると、ちょうど夜の6時になるところだった。
 やがて静けさと闇に体が慣れて来て、優はしだいに、暗闇の中に潜む不気味な気配を感じ取るようになった。
 見られている、と、優は思った。
 何かが、ジッとこちらの様子を伺っているようでとても不気味だ。でも、その感じは敵意とは違うような気もした。
 グヒッ! ガサガサッ

「ひゃッ!」

 背後で聞こえた音に、優はビクっとして飛びのいた。
 闇の中で時折松明の炎がゆらめくと、かすかに酸味の混ざった獣臭さが漂って来る。
 何かがいるのは、間違いなかった。

 カサカサッ

「……ッ」

 ガサ、グヒッ!

「ユウ」
「ぎゃあ!! ……、と、永久?」
 優が向けた松明の先に、永久がゆっくり姿を現した。
「永久! 無事で良かった。怪我はない!?」
「……ケガ。 どうして」
「さっき 『助けて』、って言ったじゃない。突然中に引きづり込まれたみたいに見えたし……ねえ、大丈夫なの?」
「私、そんなこと言った?」
「……、言ったよ永久」

 意外にも永久を簡単に見つけられたことと、その永久の平気そうな様子に、優はちょっと拍子抜けした。それが優に奇妙な違和感を与えた。

「帰ろう、永久」
 そう言って、優はひとまず出口に向かって歩き始めた。
「……、永久?」
 だがどうしてなのか、永久は一歩も動こうとしない。
「永久、帰るよ。 もう、夕飯の時間だから急いで戻らなくちゃ。きっと流和が心配してる、ほら」
 いつものように、永久の手を掴んで引っ張ろうとした優は、ハッとしてその手をひっこめた。

「ユウ、どうしたの? こっちに来て」
 永久が顔を上げ、優に近づいて来る。
 だが優は、今度は永久から距離を置くように、ゆっくりと後ろに下がった。
――冷たい。
 優が握った永久の手は信じられないくらい冷たかったのだ。
 それは、ただ冷たいというのとは違って、まるでドライアイスに触れてしまったときのように、痛みを覚えるほどの冷たさだった。
 優の心臓の鼓動がたちまち早鐘を打ち始める。
 またあの感じだ、と、優は直感した。闇の魔法使いが傍にいるときの、あの不気味な不安感と、死を連想させる冷たさ。
 でも、ここはダイナモン魔術魔法学校だ。そうやすやすと、闇の魔法使いが内部に侵入できるものだろうか……。
「……セ」
「永久?」
 突然、永久がぶつぶつと何かを唱え始めた。
「我が名ハ、……ラ。……ロ、セ」

 優には、永久が何を言っているのか、よく聞こえない。
「一体どうしたのよ!」
「コ、……ロ、セ。……コロセ。ユウ、お前を殺す」
 瞬間、周囲の空気がキーンと音を上げて張り詰めた。
 吐きだしそうなほど強い薔薇の香りが辺りに立ち込めて、優の鼻をもいでしまいそうなほど刺激した。

 ガサガサッ、ギーー! カサカサカサ
 先ほどまで闇の中で優を取り囲んでいた不気味な生き物たちが、今度は一斉に優から離れて逃げ去って行くのが感じられる。

 永久の様子をよく見るために松明で前方を照らした優は、自分の口から出る息が白くなっていることに気がついた。
 目の前の永久が、突然、ガクリと首を項垂れて動かなくなった。
 優は松明を剣のように構え、永久を見つめた。明らかにいつもの永久ではない。まるで何かに憑依されている操り人形のように、生気がなくて嫌な感じだ。

「あんた、誰?」
 優が問うと、表情を失った永久の口元だけが、不気味に吊り上がった。
「永久、じゃ、ないね」

「ユウ。 墓の中から、私は何度もオ前に呼びかけた。我が復活を確かなモノとし、もう二度と再びアノ男に私の邪魔をさせないため。オ前を殺すために」
 いつもは鈴が鳴るような心地よい永久の声が、今は、キンキンと響くラジオの途切れた電波みたいに聞こえた。
 おまけに優には、永久の言っていることがさっぱりわからなかった。

「トワ。ユウ。バカな小娘たちだ……オ前たちは、無防備すぎる。影は光と表裏を成すモノ……。光を映す鏡の内に大いなる闇があるように、無垢な光の魔法使いは、内から我を映し出す鏡となるのだ。お前は我からは逃げられぬ……ナジアスの娘、明王児 ユウよ」

「どうして私の名前を知ってるの」
 松明を持つ優の手が震えた。
「すべて知っているさ。お前の悲しみも、憎しみも、恐れも。我はすべてを見透かす者、大いなる闇の女王、アストラ」
「アストラ、って……」

 優は眉をひそめてジッと永久を見つめた。今、永久は自分のことをアストラだと言った。永久がそんなことを言うなんて信じられないことだ。
 夢か幻か。そうか、これは闇が見せる悪い夢なのだ、と優は思った。

 伝説の魔法使い炎のシュコロボヴィッツとナジアスの伝記を読んでいた優は、邪悪な魔女アストラのことを知らないわけではなかった。でも、魔女アストラは本当か嘘か分からないような歴史上の人物の話、という印象が強くて優には実感がわかない。実際、優は魔女アストラよりも沈黙の山で出会った闇の魔法使いたちの方が恐いと思った。
 
「悪い夢よ。目を覚まさなくちゃ……ッキャア!!」
 
 悪夢から目覚めるために頬をつねろうとしたとき、見えない力がいきなり優を後ろに吹き飛ばした。
 唯一の灯である松明が、優の手から離れて地面に転がり、炎が消えかかる。慌てて拾い上げようと手を伸ばしたとき、今度は物凄い圧力が上から優を襲ってきた。
 巨大な石の下敷きになったみたいに、優の体は地面に押し付けられ、同時に両手両足に鋭い痛みが突き刺さる。
 強制的に肺から空気が絞り出されて、優は叫ぶこともできなかった。
 ガタガタ、ゴゴゴゴ
 硬い地面が砕けて、優は、自分の体がその中に沈みこんで行くのを感じた。

「シュコロボヴィッツは、愛を知らない、孤独な男だった」
 唐突に、魔女は冷ややかな笑みを浮かべて優に近づいて来た。
「そう、恐れるには足りない、孤独な男……。だが誤算だったのは、忌まわしき小娘ナジアスが現れ、あの男に愛を教えてしまったことだ。二つの炎は互いを求め、高めあい、我に厄害もたらしたのだ。つい昨日のことのように思い出せる……あの、紅に染まる眼……。実に忌まわしきことだ、再び蘇ったこの時代に、シュコロボヴィッツとナジアスが現れるとは。同じ過ちは二度とすまい。伝説はもはや永遠に繰り返されることはない。ここでお前は死ぬのだ、明王児ユウ。お前さえ居なければ、シュコロボヴィッツは我のもの……」
 
 魔女が何を言わんとしているのか、優には理解することが出来なかった。伝説の炎の魔法使いシュコロボヴィッツは、大昔の魔法使いで、すでにこの時代にはいないはずだ。
 それよりも優は、自分に迫っている生命の危険のことで頭がいっぱいだった。
 まさかこんなところで、こんなピンチに陥るとは思いもしなかったが、今度こそ本当に死ぬ、と優は思った。体が完全に捻りつぶされるまで、あと何秒残されているだろう。優は今にも消えそうな松明に、必死で手を伸ばし続けた。

 左足が膝の深さまで裂けた地面の中に吸い込まれて行った。抗うことのできない優の足は、ゴゴゴという地響きと共に変な方向に折れ曲がった。瞬間、左足に、今までに感じたことのない激痛が走り、優は声にならない悲鳴を上げた。地震で大地が裂け、裂けた大地が再び元に戻ることで人や車を呑みこみ破壊してしまう、というニュースをたまに聞くことがある。そんな感じだった。優の足は割れた地面に挟まれ、ビクとも動かない。

 痛みにもだえる優とは対照的に、魔女は蝋人形のように血の気のない顔で優を見下ろし、笑っている。
「哀れな事。力もなく、夢もなく、親もない惨めな娘。だが雑草のようにしぶとく、まだそんな声が出せるのかい。醜く最後まで悶え苦しませるのがいいか、それとも早く息の音を止めてやるのがいいか。おや、気づかれてしまったようだね……、この時代のシュコロボヴィッツも、なかなか手ごわそうだ。いずれにしろ、この体ではさほど長くここにはとどまれない」
 魔女が優の体にのしかかり、首を締めあげた。永久の手から伝わるゾッとする冷たさに、優の体からみるみるうちに生気が抜け、意識が遠のいて行く。だが優はそのとき、自分の首を絞めている永久の手に、約束のミサンガが結ばれているのを見た。

「痛みは恐怖を呼び、恐怖は人の心に隙を生み出す。その隙に闇がつけ入り、人は正気を失って死んで行くのだ……、さあ、これで最後だ、死ね!」

――赤い糸が優で、青い糸が流和、白は私。3人で一緒にベラドンナに帰るときまで、このリングが私たちを結び合わせ、守ってくれますように。

「と、わ……」
 薄れ行く意識の中で、優は最後の息を振りしぼり親友の名を呼んだ。あと少しで松明に手が届きそうなのに、どうしても届かない。
「ユウ、……優、た……す、け……て」
 優の上にのしかかり、今まさに優を殺そうとしている永久の目から、涙が流れ落ちた。
 その顔に表情はなく、手は氷のように冷たいが、魔女に意識を支配されても尚、永久の心は変わらずにそこにあるのかもしれない。
 永久も苦しいのだ、と、優は思った。もし自分がここで、魔女に操られた永久に本当に殺されてしまったら、永久はその後、どれだけ苦しむことになるのだろう。
――苦しみに合うことよりも、悲しみに合うことよりも辛いことがこの世に2つだけ。それが何だかわかる? 優
 かつて優の母が言った言葉が蘇り、優は歯を食いしばって松明に手を伸ばした。
――それは、愛する人を失うことと、自分を見失うこと。

 涙が、永久の手首のリングに落ちた。そして、永久の手首に巻かれている白い光の輪が突然、流れ星のようにキラリと光る。

 永久の涙が優の頬にも落ちた。
 絶望の中に降り注ぐ、春の雫みたいに、温かい涙粒だった。
「ト、ワ……」
 優の目からも涙が溢れてきた。
 大切な人を失う苦しみを、優はよく知っている。小さい頃は大好きだった魔法が、両親を殺すために使われるのを目の当たりにしたときから、優は魔法が大嫌いで、いつも魔法から逃げようとしてきた。
 それと同じ苦しみ、いや、もしかするとそれよりも酷い苦しみを永久に背負わせてしまうくらいなら、今、優はどんな魔法を使ったっていいと思えた。
 魔法に希望を抱いている永久が、魔法に絶望してしまうくらいなら……。
――こんなところで、このまま死ねない!
 そう思ったとき、優の瞳が強い炎の輝きに変わった。
 
「と、わ!」
「優……や、く……そく」
 
 永久の手首のミサンガが一層輝きを増し、同時に優の左手首に結ばれている赤いミサンガも強く輝き始めた。永久が願いを込めて編んだ光の輪が、二人を守ってくれようとしているかのようだ。
「なんだ、コレは……、それにその眼は!」
 瞬間、魔女が力をゆるめた。
 一隅のチャンスに、優は魔女の手を振り払って松明を掴んだ。

「あんたに殺される筋合いはない! 永久から、出て行け!」

 優は死に物狂いに松明を振りまわした。
 消えかかっていた松明から、紅色の炎が飛び出し、永久を包み込む。
「ウ、ギャアアアアアア! おのれ、小娘!」

 魔女の放っていた強い薔薇の香りと、冷たい大気が急激に遠ざかって行く。
「永久!」
 優は炎に包まれている永久にしがみついた。自分の放った炎で、親友を焼き殺してしまうのが怖かった。
「優……」
 やがて永久の体から力が抜けて、グッタリと優の上に倒れかかって来ると、炎は小さくなって消えた。
 腕の中で、永久の鼓動がかすかに感じ取れる。

「はあ……、よかった。生きてる。永久……、永久はきっと、偉大な光の魔法使いになるね。きっとなるよ。永久の作ってくれたミサンガのおかげで、た、たすかったもの……」
 優は永久を胸に抱えたまま、自分も力尽きて地面に横になった。
 とても一人では動けそうにない。
 優の左足は地面に挟まれたままで、すでに感覚がない。きっと折れてしまったか、もげてしまったかだ。どちらにしても、どうなっているのか今は考えたくもない。

 辺りに湿った闇と静けさが再び訪れた。
 カサカサと地面をこする音とともに、闇の中の気配がまた優の周りに近づいて来るのが感じられた。
 そして、いくつもの黄色い目が闇の中に浮かび上がった。

 ホッと安堵したのも束の間、地面に倒れる優と永久を、落ち窪んだ黄色い目が見下ろしてきた。
 見たこともないその生き物は、鼻が潰れ、口は裂けていて、強烈な悪臭を放っている。
 全身をすっぽりと布で覆っていて、身長は人間で言えば小学生の子どもくらい。まさに小鬼だ、と優は思った。
 その小柄な体長には見合わない大きな手が優に手を伸ばして来た時、優はついに意識を失った。




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