月夜にまたたく魔法の意思 第6話3





 一般的に女の子は、男の子よりも方向感覚が鈍いと言われている。何故か。
 それは、女の子が自分のいる場所を空間の中で客観的にとらえるのが苦手なせいで、目印を相対的にではなく絶対的に位置づけてしまうからだ。目印というのは大抵、行きと帰りで見え方が違うものだが、女の子は別の角度から同じ目印を見ても、それだと気付くことができないのだ。

 ダイナモンに来て1日目の優と永久も、そんな方向音痴な女子なのである。
 だから、朱雀たちと別れて石壁の間をあとにした優の足は、階段を下るごとに頼りなく止まったり、また歩みだしたりするのだった。
 来る時には流和に連れて来てもらったから、道なんて覚えていない。

 四つの廊下が伸びている緑柱石の小さな円形広間まで下りて来たところで、優はついに困ったように立ち止った。
 ここはまだ、北の塔だと思うのだが……。
 窓がないので、自分たちが今いるのが何階なのかが分からない。
 辺りを見回しても、現在地を示す学内地図などは見当たらない。流和という唯一のダイナモン案内人を欠いた今、優たちは迷子の子猫ちゃんにさせられているのだ。
 永久が制服のブレザーから携帯電話を取りだし、アドレス帳から流和の番号を呼び出した。だが、表示は圏外……。
 この学校は本当にどこにも電波がないようだ。これでは、医務室に行った流和に助けを求めることもできないじゃないか。

「迷ったわね」
 と、開口一番永久が言った。
 それに対し、優がムッとして言い返す。
「まだ迷ってないよ。ただ、どっちから来たんだったか分からなくなっただけ」
「それを迷ったって言うのよ。ねえ、さっきのところに戻って、吏紀くんたちに道を聞くべきだと思うんだけど」
「嫌だよ」
 優が首を振る。
 吏紀はともかく、一緒にいる朱雀に助けを求めるのだけは嫌だった。お前を助ける義理がどこにある、と冷たく突き放されるのがオチだ。


 困ったものだ。どうして緑柱石の広間から伸びている四つの廊下には、どれもこれという特徴がないのだろう。
「どっちへ行くの?」
 という永久の質問には答えず、優は四つの廊下の一つを適当に選んで進んで行った。
 廊下はゆるやかな傾斜になっている。優たちはどんどん斜めに曲がりくねっていく廊下を下って行った。
 すぐに小さな木扉に突き当たった。
「こんな所、通らなかったわよ」
 文句を言いながらついて来る永久をよそに、優は木扉を押し開けた。
 扉を開けた瞬間、樫材の強い香りとともに殺風景な空間が二人の目の前に広がった。そこは、天井も床も壁も全てが樫の木材で覆われた闘技場だった。
 闘技場の片面に木製のスタンド席が並んでいるのは、まるでギャラリーが試合観戦でもするような感じだ。
 壁には、長刀や剣、弓矢、ヌンチャク、鉄拳グローブ、ナイフなど、様々な武器が掛けられているが、中でも一番多いのは、何の変哲もない長い棒だ。棒は、マジックストーンの無い杖によく似ていた。

「ここはきっと、木製の広間だね」
 優は樫の木の闘技場をグルリと一望すると、探偵のように断言して木扉を閉めた。
「なんだか、物騒な感じね。戦争で使うような武器がいっぱいあったわ」
 来た道を戻り、さっきと同じ緑柱石の広間に戻ると、優は今度は迷わず反対側の廊下に進んだ。
「どうしてそっちだって分かるのよ」
 永久が不満そうに眉をひそめてついて来る。
「別にこっちが正解だって分かってるわけじゃないよ。ただ、4つの廊下はどれも一対ずつ正対してるから、向かい合う廊下を対にして攻略していけば、どの廊下を攻略済みかを混同しないですむかな、って思って」
「なによそれ、分からないんだったら普通に、隣り合う廊下を順番に回って行けばいいんじゃないの?」
「チッチッチッ、いい? 円形の広間では方向感覚を失いがちなんだよ。入るときには右側だった廊下も、出て来たときには左側になってる。そんなことを繰り返しているうちに、何番目の廊下だったかを忘れて、また最初からやり直す羽目になるの。だからこうやって、正対し合う廊下を対で攻略していけば、戻って来たときに正面に見える廊下はさっき攻略した廊下だって、分かるでしょ」
「まあ、言われてみればそうかもね」
「……ああ、流和もひどいよね。目印にハンカチくらい落として行ってくれればいいのにさ。そしたらこんな苦労はしないですんだのにね」
「勉強は嫌ってるくせにそういう所には頭が回るんだから、優には感心しちゃうよ」
「私を誰だと思ってるの? ピンク色の脳細胞の持ち主、名探偵の明王児優だよ」
「それを言うなら、灰色の脳細胞でしょう……」

 そんなことを言っているうちに、2つ目の廊下は長い下りの階段にさしかかった。
 石づくりの階段は湿り気を帯びていて、緑色の苔があちらこちらにこべりついている。
「この道も違う気がする。ねえ、引き返そうよ。この階段、かなり滑りやすいみたい」
「しぃ、水の音が聞こえる! ここってもしかしたら、大浴場に繋がってるのかも」
 そう言って、優が確信に満ちた表情で先を急いだ。
 すると、階段の終わりで壁がなくなり、バルコニーのような手すりのついた空間に出た。手すりの先に青と緑の光がゆらゆらとゆらめいていた。

「わーお、何ここ、水族館?」
「違うって、変な臭いがするもん。ここは水族館というより……錆びついたドラム缶の中ね」
 円筒形の空間を見下ろす位置にあるバルコニーは、巨大なプールを観覧するスタンド席だ。
 そこから見下ろすと、眼下に巨大な水たまりが見えた。
 白い光の煌めくダイナモンの大浴場とは違って、そこは陰湿な雰囲気を存分に漂わせている。実際、眼下に広がっている水の色は生命の危険を感じさせるほど不透明で、暗い。
 濡れた石壁が青色や緑色に煌めいているので、空間全体がユラユラと揺らめいて見える。まるで水中にいるみたいだ。

「ここはもしかして、水の間じゃない? 流和が、北の塔には4つの闘技場があるって言ってたもの」
「うっそー、水の間って、もっと綺麗な感じかと思ったのに、汚い感じ。私、あの水の中に入るなんて、考えただけでもゾッとしちゃうな。行こう、永久」
 優は身震いしながらきびすを返して、もと来た道をさっさと引き返し始めた。
「それにしても、こんなこと、いつまで繰り返さなくちゃいけないの?」
「あと1、2回だよ」
 長い階段を上り、やっと緑柱石の広間に戻って来たときには、優も永久も息を切らしていた。

「じゃあ、次は」
 乱れた息が戻る前に、優は3つ目の廊下に向かった。正対する最初の2つの廊下はハズレだったので、次はもう一対の正対する廊下だ。
「待って、次は私に決めさせて」
 優が行こうとしたのとは逆の廊下を永久が指さした。
「こっちよ」
「別にどっちでもいいけど」と、優が足を止めて振り返る。
「どっちが決めたって、当たりを引く確率に変わりはないんだからね」
「それはどうかしら」
 永久は自信ありげにほほ笑むと、軽快なステップで3つ目の廊下を進んで行った。優は素直にその後に従う。
 廊下はまたしてもすぐに階段につきあたり、今度はさっきよりももっと長い真っすぐな階段が延々と続いていた。あまりに先が長いので、終わりが見えない。
しかも、階段は下るごとにだんだん暗くなり、壁にかかっている松明の炎も、何故か先へ進むにつれて小さくなっているようなのだ。
 もしかしたらこの階段は地獄に通じているのかもしれない、と優は思った。
 石段を一段下るごとに、得体の知れない圧迫感が増して行くようだ。

 やがて足もとが見えないほど松明の炎が小さくなり、これ以上進むのはもう無理だと思った時、永久が大きな鉄扉にたどりついて立ち止った。

「こんな所、絶対に通らなかったんだから、もう引き返そうよ。疲れたよ」
 今度は優が文句を言った。なんだかイヤな予感がしたのだ。
 だが、永久は優の言うことも聞かずに、遊園地のお化け屋敷に興奮する子どものように目をきらめかせて鉄扉に手をかけた。
「せっかくここまで来たんだから、何があるのか、覗いてみましょうよ」
――クオーーーーーン
 扉は魂を揺さぶる奇妙な泣き声を上げてゆっくりと押し開けられた。たちまち、中から生温かい風と、墨のようにしっとり濡れた闇が勢いよく漏れ出して来た。
 何か気持ちの悪いものが闇の中にいる、と優は咄嗟に後ろに飛びのいた。

 次の瞬間、鉄扉の取っ手に手をかけて中を覗こうとした永久が、音もなく扉の向こうに吸い込まれて姿を消した。
「永久!!」
――ガシャーン!

 永久を吸いこんだ鉄扉が優の目の前で口を閉じた。
「うそでしょ、どうしよう。永久、ふざけないで!」
 そうは言ったものの、永久が自分の意思で暗闇の中に入って行ったのではないことは、優の目にも明らかだった。
 何らかの強力な力に引きづり込まれた……そんな感じだった。

「永久……」
 永久を呑みこんで閉じた扉に手をかけたとき、優は自分が震えていることに気がついた。永久の返事はない。
 石壁の間、木製の間、水の間に続いて3つの闘技場を見て来たから、おそらく今、優がいるこの場所は4つ目の闘技場である暗闇の間。
 それぞれの闘技場は、ダイナモンの生徒たちが戦闘訓練をするためのものだから、いくらなんでも生死に関わるほど危険なことは起こり得ないはずだ、と、優は思いたかった。
 ただし、それぞれの闘技場に何らかの魔法がかかっているということは、十分に考えられる。もしかすると、暗闇の間には特別な引力が働く魔法が……?

 優は慎重に、ゆっくりと鉄扉を引き開けた。
 闇の中を覗いて見ても、光を完全に遮断された扉の向こうには不気味な気配が漂うばかりで、何も見えない。質量を持つかのような重たい黒が、塗り壁のように優の視界を塞いでいる。
「永久! 大丈夫? 返事して」
 扉の向こうに片足を踏み入れてみたものの、じっとりと体に絡みついてくる闇に恐怖を覚えて、優はすぐに足を引っ込めた。
―― どうしよう。
 引き返して誰かに助けを求めるべきだろうか、たとえば、朱雀に……。
 いや、待て。
 ここまで来るのにかなり長い時間がたっているし、もと来た道を戻るにはまた相当時間がかかるはずだ。今から石壁の間に戻っても、そこに朱雀がいる確証はなかった。そんなことをしている間に、この暗闇の中に永久を取り残して行くことはできない気がした。

――ユウ。
「へ?」
 突然、ゾっとする寒気が優の背中を走った。
 誰かが優の名前を呼んだような気がしたのだ。
 握ったままにしている優の手がジットリと湿ってゆく。右往左往していると、暗闇の中から、今度はさっきよりもはっきりと優を呼ぶ声がした。
「 ユウ 」
 そう聞こえるだけで、もしかしたら風の音だろうか。
 優は意識を研ぎ澄ませ、闇の中を凝視した。

『 ユウ 』

 いや、それは確かに女の声だった。今度はさっきよりもはっきりと声がしたので、優は子猫のように身をすくめた。間違いなく女の声だ。
でもそれは、聞きなれた友の声ではない。
 瞬間、優の脳裏に、交差点での不思議な出来事が蘇る。
 あれは、ダイナモンに来る日の夕方、聖ベラドンナ女学園を抜け出して優がコンビニに買い出しに行ったときのことだった。その帰り道、交差点を渡っていたときにも、優は同じ声を聞き、危うく暴走トラックに撥ねられて死ぬところだったではないか。

「 こっちにおいで 」
 不意に響く無機質な声が、優に誘いかけてくる。その言葉そのものが、肉体を貫いて優の精神に直接響いて来るので、優は自分の意識を乗っ取られないように両足を踏ん張った。

 ここは暗闇の間。
 ダイナモン魔法学校の闘技場の一つに、何か不気味な魔物が居るのだろうか。訓練のために? でも、闇の中から聞こえて来る声が優の名前を知っているのはどういうことだろう。どうして声は、交差点で事故に巻き込まれそうになったときにも聞こえたのだろう。
 優の呼吸が自然と速くなり、息が白くなった。
 それに続いて、扉から漏れ出て来る闇に混じって、ツンと鼻を刺す薔薇の香りがした。それはフェニキア薔薇やブルガリアンローズとは違って、とても苦い臭い。
 似たような香りを、優は賢者の鏡の中に閉じ込められて、呪いのムーンカードを燃やしたときにも嗅いだことがあるし、それに、沈黙の山の大きな柳の木の下でも、これに似た臭いをかいだ。
 奇妙な類似点だ。

『 私のところにおいで 』
 強い香りが優の思考をぼやつかせ、優は体がふわふわと麻痺していくのを感じた。
 声は何度も優に誘いかけて来るが、優はかろうじて扉にしがみついて、自分の意識を手放さぬように足を踏ん張っている。

「 ユウ、助けて 」
 突然、闇の中から永久の声が聞こえた。
「永久! ……永久なの?」
 それは確かに永久の声だった。でも何故だろう、優の知っている永久ではない気がして、優は眉をしかめた。

「 ユウ、助けて。動けないの 」
 無機質な永久の声が優を呼んでいる。優の全身に嫌な予感が広がって行く。優の体は、暗闇の中に入ることを拒んでいる。
 逃げろ、逃げろと心が騒ぐ。

 でも、優はグッと唇を噛んで、くじけそうな自分に喝を入れた。――親友ならば助けに行くのが当然だ。
 本当なら、永久が闇の中に引きづり込まれた瞬間に、永久を助けるために闇の中に飛び込むべきだった。
 それなのに優は、闇の恐怖におののいて扉にしがみつくばかりで、中には入らずにジッと様子を伺っているだけの臆病者だ。
 優は意気地のない自分のもたつき加減にイラつきを覚えて、神経質に息を吐いた。息が白く、凍るような寒気が全身に広がって行く。
――『闇の魔法使いには近づくな』
 と、不意に朱雀に言われたことが優の脳裏をよぎり、足がすくむが、ダイナモンに闇の魔法使いがいるわけはないと思い直して深呼吸する。
 気味の悪い声の正体は分からないし、優を呼ぶ永久の声はもしかすると偽物なのかもしれない。
まさに、一寸先は闇。
 
 しかし、優は壁にかかっている松明を取り上げた。

「今行くから、待ってて」




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