月夜にまたたく魔法の意思 第11話3
ベラドンナの白亜の図書館で、図書委員用のエプロンを締めた優は、今日も本たちの修復作業に励んでいる。
賢者ゲイルから預かってダイナモンから持ち帰った件の予言書は、今はもとあった場所で心地よい寝息をたてている。
丁寧に修復した本を順番通りに、慎重に棚に戻しながら、優はダイナモンで出会った仲間たちのことを思い返した。
何と言っても大ニュースなのは、ベラドンナに帰る日の朝に、空が流和にプロポーズをしたことだ。もちろん流和の答えはイエス。
学校を卒業したら、流和と空は結婚するという。
吏紀と永久は正式に恋人同士になって、今、吏紀と永久の手首にはそれぞれ、再会を約束して永久が編んだ新しいミサンガが結ばれている。
すでにその効果は優と流和の友情ミサンガで明らかになっている通り。きっと永久は近いうちに吏紀と再会して、九門家の後継者となる吏紀の良い助けでとなっていくんだろう。
紫苑さんとマリー先生は結婚して、幸せに暮らしているらしい。
紫苑さんは闇から戻った光の魔法使いとしての経験をいかして、播磨先生と一緒にダイナモンの実戦教師になったみたい。
聖羅の体調が完全に回復するにはまだしばらくかかりそうだけど、美空がずっと傍についているというから、心配はないはず。
三次はドラゴン飼育員を続けていて、卒業したら、野生ドラゴンを専門に研究する道に進むのだと優に教えてくれた。
一方で桜は世界中の魔法植物を研究する道に進むのだとか。
けれどきっと、進む道は違っても、あの二人はどこへ行っても一緒にいるような気がする。
東條と美空、それに朱雀は、ダイナモンを卒業したら魔法公安部への就職が内定しているらしい。
優は卒業したら、山形の実家に戻って、大学に進学する予定だ。以前みたいに、魔力封じのゴーグルをかけて魔法使いになることを辞めようとしたいわけではなく、勉強したいことがあるんだ。小説家であった母が通った学校で、文学のことを。それに、人間界の中に埋もれている魔法使いと聖アトスの歴史を、もっと掘り起こしたいとも思う。
だから、魔法界には今は行けないし、次に朱雀といつ会えるかも、優には分からない。
優は溜め息混じりに最後の本を棚に収めると、梯子から降りて、エプロンを外した。
校庭に、本日最後の授業が終わったことを知らせるチャイムが鳴り響いている。優は図書館の鍵を締めて、外に出た。
直後、賢者の鏡がキラっと輝いたことには気づかない。
群青色の空に鮮やかな朱が差して、秋の訪れを予感させる。日毎に夕暮れの時刻が早まっていくようだ。
優は夕陽に照らされた薔薇の園庭を抜け、ゆっくりとガラスのテラスに向かって歩いて行った。
サフランの花が開く季節。そこには薄紫色の花が咲き乱れ、光の館は恋の香りで満ちるようになる。
普段は色気よりも食い気という優でさえ、切なくて幸せな気持ちになるその香りの中で、優は朱雀のことを思ってたちすくむ。
日が暮れてゆくまでずっとそうするのが、近頃の日課になっていた。
朝起きれば、当たり前のようにベッドの中で感じることができた朱雀の炎の熱。
その熱をベラドンナでは感じられないことが、こんなに寂しいものだとは思いもしなかった。
ダイナモンの食堂に降りて行けば、たいていは先に朱雀が食事をしていて、面倒なことや偉そうなことを言ってくるのが日常だったのに。
何気ない憎まれ口をたたける相手がいないというのもまた、想像以上に退屈なものだった。
夕陽を受けて、ベラドンナの白い制服に身を包む優は、もう以前のように虫やモップのようではなく、髪は艶のある炎の巻き毛。シュコロボヴィッツの美しい瞳。
恋する乙女は、悩ましげに瞼を伏せている。
だが直後、その瞳がハッと見開かれた。
図書館の方から突如、強い炎の力を感じたのだ。
「朱雀?」
図書館に向かって走り出そうとした優の鼻先に、突然現われた灰色の壁が激突した。
「んん!」
「うわっ! 悪い」
瞬身魔法で現われた朱雀の胸に顔面を勢いぶつけた優は、両手で顔を覆って天を仰いだ。
「なんでいきなり現われるのよ、今、そっちに行こうとしてたのに、危ないなあ、もう!」
「悪かったって。早く優に会いたくてさ」
鼻血が出て来たので、優はハンカチで鼻を押さえながら上を向いたままの姿勢になる。
「わざわざ、会いに来てくれたの?」
「それもあるけど、聖羅からこれを預かってさ。優に、返してほしいって」
そう言って朱雀が差しだしたのは、街で事故にあったときに失くしたと思っていた携帯電話だった。
「聖羅が持ってたんだ。でも、なんで?」
「魔女の器にする儀式のために、その人間の持ち物が必要だったらしい。ベラドンナに来たとき、聖羅に憑依した魔女がとったんだろ。ゾッとする話だけど、謝ってたから赦してやってくれよ、聖羅のこと」
「うん、怒ってないよ」
「それで、優の方は順調なのか? 図書室の修復の方は。ちょっと、見せてみろ」
朱雀が優の顔のハンカチを取ろうとした。
「さっき全部おわったところ。まだ止まってないよ、んん!」
ハンカチを取り去った朱雀が、優の顎を持ち上げていきなりキスを落として来たので、意表をつかれて鼻血も止まってしまったくらいだ。
ただ、唇を重ねるだけじゃなくて、「寂しかったよ」、と会話をするように唇を噛んだキスだったから、優も抑えていた気持ちがこみ上げてきて、朱雀の胸に顔をうずめてギューっとしがみついた。
「会いたかったよ、朱雀」
「うん」
そのまま朱雀の胸に顔を埋めたまま、優は話し続けた。
「私、ベラドンナを卒業したら、山形の大学に進学する」
「聞いたよ」
優が決めた道だから、朱雀は引き止めようとは思わなかった。けれど本当は、優に魔法界に来てほしいと思っている。
いっそのこと、空が流和にしたみたいに、朱雀も優に結婚の申し込みをしたいとさえ思っていた。けれど、どうやらそれは許されてはいないようだ。
たとえ遠く離れていても、愛し愛されることはできるわけだから、結婚という形にはこだわらない、と自分に言い聞かせて、朱雀は潔く諦めるつもりだ。
だから、直後に放たれた優の言葉を、朱雀はすぐに理解することができなかった。
「私、大学に通う4年間で、今よりももっと朱雀に好きになってもらえるように頑張るから。卒業したら、朱雀のお嫁さんになりたい」
「……、へ?」
ポカンとしている朱雀を、優が腕の中から真面目な顔で見上げてきた。
「朱雀のお嫁さんにしてください」
「そんなこと言われたら、本気にするけど。4年後にあれは冗談だった、って言われても、その時は力づくで俺のものにするけど、本当にいいんだな」
今度は優がポカンと首を傾げる。
「冗談でこんなこと言うわけないでしょう」
「魔法界で暮らすことになると思うけど」
「うん、朱雀の家に行くよ」
「……、結婚したら、毎日キスするし、お前のことをたくさん抱くし、目覚めるときも眠るときも、一緒なんだぞ。意味、わかってるよな」
「うん、幸せな家庭を築こう!」
優は両手をパッと広げて、今度は朱雀の首に抱きついて来た。
その仕草があまりに無邪気なので、朱雀は最後にもう一度確かめたいと思い、改まって優を真っすぐに見つめる。
「それなら、ちゃんと聞かせてくれ。明王児優、俺のことを愛してるか」
優が朱雀のことを愛していることは、プレシディオリングがすでに教えてくれていることだった。けど、その言葉をまだ直接、優の口からは聞いていない。だから朱雀はその言葉を聞きたい、優にちゃんと言って欲しい。
すると優は、なんだ、そんなこと? と言わんばかりに優しく微笑んで、朱雀の瞳を真っすぐに見つめ返して小さく頷いた。
優の頬がかすかに朱色に染まって見えるのは、夕陽のせいばかりではなさそうだ、と朱雀は思った。
「高円寺朱雀、貴方を、愛しています」
その時、温かな風が二人の間に吹きぬけて、サフランの花弁が妖精のようにフワリと舞い飛んだ。
「……、優」
ずっと言って欲しかったその言葉は、いとも容易く、驚くほど自然に朱雀の心に入ってきた。
まるで前からずっとそこに在ったみたいに、「ただいま」と言って、家族が家に帰ってくるみたいに、朱雀の心に優の愛してるが入ってきて、息づきはじめる。
朱雀は今、自分の心臓の鼓動をハッキリと感じ取ることができ、胸が熱く脈打つ感覚に言葉がすぐには出て来なかった。
「朱雀は?」
今度は優に問われて、朱雀は目がしらが熱くなるのをグッとこらえる。
愛されるだけじゃなく、愛してもいるから。問われることで、思いが繋がっているのを感じたから。
「……、愛してるよ優」
当たり前のことを、当たり前に言うだけで、こんなに心が震える。
朱雀は強い衝動に突き動かされて、頭からすっぽり優を抱き寄せると、掠れる声で何度も繰り返した。
「愛してる、愛してる、……愛してるよ、優」
「うん、私もだよ、朱雀」
暮れなずむ夕陽に染められ、朱色の二人はサフランの香りに包まれて、いつまでも優しく互いを抱きしめ合った。
明日はまたやってくる、当たり前のように。
愛の告白より、重ねた唇より、抱きしめた温もりよりも。
そこに当たり前のようにアナタがいることが奇跡みたいに特別で、嬉しい。
私たちの新しい日々は、こうして始まっていくんだ。
Fin.