月夜にまたたく魔法の意思 第10話16



 チビのシュピシャー・ドラゴンの後を追って、朱雀は必死で走った。
 優に何かあったことは明らかだった。朱雀の心臓が刺すようにキリキリ痛み、全身から生気が遠のいて行くのを感じたからだ。プレシディオ・リングが朱雀と優の命を結びつけているのだ。優は多分、今死にかけている。
 自分が死ぬことよりも、朱雀は優を失うことをひどく恐れた。
 
「朱雀、待ってよ!」
 谷底から地表に続く細道は、今にも崩れ落ちそうな狭い一本道で、足場が悪かった。仲間たちが朱雀を追ってくるが、背後の仲間に気を配っている心の余裕は、もはや朱雀にはなかった。
 転び、傷ついても、朱雀は前だけを見て、優のもとに向かって走り続けた。少しでも立ち止まったら、泣き出してしまいそうだった。
 天文数理魔法学の授業で黒板に書かれた優の名前が、朱雀の脳裏に焼き付いていた。
 予言の魔法使いのうち、5人には生きるための式があるが、残りの1人は必ず死ぬ。その最後の一人を優が担った、あの証明完了の文字。

――そんなの絶対ダメだ。俺たちは生きるために闘うって言っただろ、優

 心臓が破裂しそうなくらい、ドキドキが止まらない。それでも朱雀は走り続けた。息をするのがこんなに思い通りにいかないことが、今までにあっただろうか。
 けれど、たとえ肺が弾けたとしても、朱雀は止まらない。
 朱雀は吐きそうになりながら、夕陽が低く差しこむ大地にやっとの思いで這い上がった。
 目を上げると、暮れなずむ夕陽を背に受けて、誰かが優を抱きかかえて草原の中をこちらに歩いて来るのが見えた。
――アメジスト
 それが闇の魔法使いでないことに、朱雀は少し驚く。
 だがそれよりも、視界に入るほど近くに居るのに、優の炎の力を全く感じ取れないことに、朱雀の全身は強張った。
「優!」

 優を抱えて歩いて来た紫苑は、憐みをたたえた眼差しで朱雀を見やると、朱雀の腕の中に冷たくなった小さな体をあずけ渡した。
 優を両腕に抱きしめた朱雀が、乾いた大地の上に屑折れる。
「優……」
 紫苑は静かに朱雀を見下ろした。
「彼女は自らの命を犠牲に、魔女を滅ぼした」
 辛い事実だった。

 朱雀は震える手で、優の左胸に深く刺さりこんだ小刀を慎重に引き抜き、同時に癒しの炎で素早く止血を施した。けれど、優の呼吸はとまり、すでに脈も感じられなくなっていることに、気づかぬはずはない。自分で心臓を貫いたとあっては、きっとすごく痛かっただろう。それなのに優は、まるで眠っているみたいに安らかな顔をしていた。
 朱雀の視界が涙でかすんで、優の顔がどんどん見えなくなる。

 最初に朱雀に追いついて来たのは、空だった。一目で事態を悟った空は何も言えず、ただ、朱雀の隣に力なく座りこんだ。
 続いて、流和、吏紀、永久、そして東條と、少し遅れて、聖羅を抱えた美空と三次、桜が地面に這い出てきた。みんな泥まみれで、傷だらけで、息をハアハア上げているが、朱雀の腕の中で横たわる優を見るや、誰もが凍りついて、言葉を失った。

 皆が突然訪れた悲しみに首を垂れる、その中で、朱雀は指先で優しく優の頬をなぞった。
 「いやだな、優が、世界のどこにもいないと感じる瞬間……俺を一人にしないって、約束したのに」
――「でも、眠り姫は王子様のキスで目覚めたのよ」
 死に顔ですら、愛おしい、とそう思った時、ふと、朱雀は優と出会ったばかりの頃、二人で交わした会話を思い出した。
 「お前は黙ってろ、イライラする」と、朱雀は優のメルヘンな思考を一喝したのだ。
――「おこりんぼさんね」
――「キスが最強の魔法なんて、そんなのは幻想さ。お前みたいなメルヘン気どりの女には虫酸が走る」
 けれどあのとき優は、まっすぐに朱雀に言い返して来た。

――「私はそうは思わないな。奇跡はあると思う、それを願う人がいる限り、必ずある」 と。
 本当に、そうだったらいいのに。

 朱雀は、優の小さな顎を持ち上げて、今は枯れた花弁のように乾いた優の唇に、自らの熱い唇を重ね合わせた。
 優、世界で一番、大好きだよ。



 その頃、魔女の城で予言書を取り戻した賢者ゲイルの腕の中で、ハープが不思議な歌を歌い始めた。

――二つの炎は結びあい、できないことも、できると歌う。
   曙の宵、黄泉とこの世の界は竜の子により開かれて、ナジアスの娘はシュコロボヴィッツの愛で目覚めるだろう。



 優は長い夢を見ているのだと思った。
 光の雲の上を歩いて行くと、そこに大好きな優の両親がいて、優に気づくと二人はなぜか、少し困った顔をした。
「まだ、ここに来るのは早いわ、優」
 と、お母さんが言った。
「でも私、お母さんとお父さんと一緒に居たい」
「お前のことを待っている人がいるんじゃないのかい? 優」
「うん、そうだけど」
 父、晴矢は、優しく優の背中を押した。
「戻りなさい」

「ねえ、お父さん、私は」
 父と母は今でも優のことを見守ってくれている。すぐ傍にいる。分かってはいるけど、子どもはたまに親に、聞いてみたくなるんだ。
「私はいい娘だった?」
 なんだ、そんなことか、とでも言いたげに、父と母はニコリと微笑んだ。
「ああ、自慢の娘だ。――明王児 優。人にも魔法使いにも優しい、立派な魔法使いになったようだね」
「私たちはいつも、あなたを愛しているわよ。私の大切な、大切な娘」
 その言葉を聞いて、優の心がふわりと軽くなる。愛してくれる人がいて、見守ってくれる人がいる。誰が何と言おうと、優の存在を認めてくれる両親がいたから、優はこれまで生きて来られたんだ。そして、これからも――
「うん。もう、行かなくちゃ。朱雀がきっと、心配してると思うから。お父さん、お母さん、またね! ずっとずっと、大好きだよ!」

 優が戻るために振り返ると、ブレザーの内ポケットの中で、まだ使っていない最後の金の鍵が凄まじい熱を帯びて光り出した。
 不思議に思って取り出して見ると、回してもいないのに空間に金色の線が入って、小さな光の扉からノステールが転がり落ちてきた。

 ギュイイイ!

「ノステール! なんでこんな所に出て来たのよ。グルエリオーサから離れちゃダメだよ。 あ、こら、待て!」
 いきなり雲の上をジグザクに走り出して行くノステール、――我らの友、を、優は勢いよく追いかけた。直後、優は見えない壁に激突して、目の前が真っ白になった。

 うう、頭が痛い。
 口から何か、すごく熱いものが流れ込んでくる。く、苦しい! 燃えてしまいそうだ。
 次の瞬間、優はあまりの熱さに両手でそれを押し返した。

「ゲホッ! ゲホッ! く、苦しい!!」
「優!?」
「息を吹き返した!」
 誰からともなく、周りでみんなが騒いでいる声が聞こえる。頭がガンガンする。目を開けると、地平線の彼方に太陽が沈んでゆく眩しい光が見えた。
 ここは、どこ? もう雲の上じゃない。
 その混乱の中で、あろうことか朱雀が再び優に唇を落として来た。
「んん!」
 両手で朱雀の胸を押し返すのに、強い力で抱き寄せられて、唇は完全に塞がれてしまう。

 長くて、息継ぎもできないほどとめどないキスの後、朱雀がようやく少しだけ唇を離したすきに、優は小さな拳で朱雀の胸を叩いた。
「息が、できないよ、朱雀のばかッ……、苦しくて死んじゃう!」
「たった今、生き返ったばかりだろう」
 朱雀の紅色のシュコロボヴィッツの瞳が、優の瞳と重なって、いつもより熱く揺れている。

 その後ろで吏紀が、
「王子様のキスで姫が目覚めると言うおとぎ話も、まんざら嘘ではなかったようだな」
 なんて分析めいたことを言っている。
「――私、やっぱり死んだの?」
 小刀を刺した胸に手を当ててみると、そこに朱雀の炎の力を感じた。魔女の冷たさにとってかわって、今は大好きな朱雀の温もりがある。
「朱雀……」
 優の紅色の瞳に、大粒の涙が浮かびあがったかと思うと、優はギュっと朱雀のことを抱きしめた。
「このリングのせいで、朱雀まで死んじゃうんじゃないかと思って、私、すごく心配したんだよ!」
「俺は、すごく恐かったよ。優が俺を残して本当にいなくなるんじゃないかって」
「一体何をしたの?」
「それは俺が聞きたい」
 その時、抱き合う二人の周りに温かい風が吹いて、猿飛業校長と、桜坂教頭、それに賢者ゲイルが大鷲を伴って上空から舞い降りてきた。

 見識の高い猿飛校長の眼は、事態を素早く見抜き、説明を求めないまま、感心したように呟いた。
「ほほお、またしても相同魔法じゃな。炎の魔法使いのプレシディオ・リング……命をかけた守護魔法か。そなたの手にあるその指輪には、互いを強く思い合う、二つの方向からのとてつもない力が込められておる。――実に、美しい。じゃが、それだけではないようじゃ。小刀にこめられた、桜坂教頭先生の加護の魔法も、そなたの命を繋ぎ止めるのに一役かったようじゃな。そして、祝福の竜の子とな……こんなにも幸運が重なるとは、なんとも奇すしきこと」

「ノステール!」
 なんと、優の夢の中にいたはずのノステールが、草原をここぞとばかり楽しそうに駆けまわっているではないか。
「おいで!」
 朱雀の腕の中から這い出して、優はノステールの後を追い始めた。

 猿飛校長はゆっくりと朱雀に手を差し伸べると、傷だらけの朱雀の手をとって、立ち上がらせた。
「高円寺朱雀、見事に働きを全うしたようじゃな。闘いは終わった。仲間をつれて、城に戻るのじゃ、よくやった」
 それから業校長はともに闘った魔法戦士たち一人一人を誇り高く見つめると、
「よくやった、息子、娘たちよ」
 と、深い愛情をたたえて皆の労をねぎらった。


 高円寺夫妻を含む闇の魔法使いの残党が撤退したことで、上空の大気はすっかり穏やかな夏の色を取り戻していた。
 だから帰りは、業校長たちが連れてきた大鷲の背に乗って、魔法戦士たちはダイナモンへの帰途につくことができた。

 東條と美空は、サンクタス・フミアルビーの背中に再び乗らずに済んだことに安堵したし、他の者も、激戦の後では歩くことも飛ぶこともままならない状態だったので、たとえ少々乗り心地が悪いにしても、大鷲での移動はとても有難いものだった。

 こうして魔女との戦いの日は幕を閉じ、日は穏やかに暮れて行った。



10話END (第11話へ続く)