第5話−1
渋沢学院での事件を終えた私たちは、また探偵学園での日常に戻ってきた。
休日になって、久しぶりにミッションルームに行けることが嬉しくて、私はいつもより早くにやって来た。まだ他の誰もいない、朝の7時前。
マホガニーの木の匂いや、古い本の匂いがする、その静かな空間に入っていくと、すごく懐かしくさえ感じられて、ああ、ここがもう私にとっての大切な場所になっているんだな、としみじみ思う。
やがて仲間たちがここに集まって来て、きっといつもみたいに、「おはよう」って挨拶をして。
他愛もない一日が過ぎるんだろうな。そうやって思いめぐらしていたら、ここ数日に起こったことが、また不意に脳裏をかすめた。
死んでしまった人たちはどこに行くのだろう。
昔、そんなことを、パパに聞いたことがある。
ママが死んだ時、パパはずっとピアノを弾いていたっけ。
さなえはミッションルームの片隅でカバーをかぶって、本の山に埋もれているグランドピアノを開いた。
ポロン。
てっきり調律がはずれているかと思ったのに、意外にも鍵盤の音はどれもしっかりしていた。
パパがママを思って、いつまでも奏でていたメロディーを、さなえも指でなぞった。
不意に朝吹さんの笑った顔が思い出されて、さなえの目に涙が浮かんでくる。
声が震えて、うまく歌えない。
けれど、さなえは口ずさんだ。そうしなければ、心が壊れてしまいそうなんだ。
―『 世界が灰色に見えるとき。寒くて凍えそうな夜。朝日はもう私には昇らないと諦めた時。 』
静かなピアノの素朴なメロディーが、心を流してくれる。
あの時、パパが歌っていたわけが、今は分かるような気がする。
目の前で逝ってしまった人たちのことを思って、さなえは歌った。震える声で、泣きながら。音をはずしても。
―『 私の愛するあの人、恋しくて、恋焦がれても、
息絶えた人たちは、どこに行ってしまうのでしょう。
私がそう訊ねた時、あなたは言いましたね。
ここに。
ここにいる、と。
思いが咲く場所に。思いが芽生える場所に。
私の思いがあるところ、どこにでも、彼らはいると、
あなたは言いました。
彼らはここに。今もここにいます。
そう、彼らはここに。今もここにいます。 』
ミッションルームの入り口の外で、リュウが壁に背をもたれて耳を傾けていた。
キュウやメグ、数馬、キンタがぞくぞくとやって来たけど、誰も、今は中に入ろうとはしなかった。
さなえが歌ってるから。
泣きながら一人で、音をはずして、震えながら歌っている、その歌が、事件の犠牲となった人々に向けて、朝吹さんに向けて歌われているものだとわかっているから。
今は、それを止めてはいけない気がしたのだ。
「あ、おはよう」
Qクラスのみんなは、いつもより遅くやってきた。結局、さなえがピアノを元あった通りに片付けて、一人でソファーに座って、退屈し始めた頃になってやーっとやって来たのだ。
いつもだったらみんな、もっと早いはずなのに。
どうしたのかな。
「おーっす」
「おはよう!」
「さなえ、オッハー」
「おはよう」
「おはよう。今日は早いんだね、さなえ」
って、みんなそれぞれ、いつも通りに挨拶をしてくれる。
リュウが中央のテーブルに座って、『自由からの逃走』と、『悪とは』という例の難しそうな2冊を取り出すのを見て、さなえが言った。
「その本、まだ読み終わってなかったんだ。さすがのリュウでも、難しい?」
「いろいろ忙しかったからね。そう言うさなえは、手話の勉強進んでるの?」
「うん」
さなえはソファーに座ったまま、声を出さずに、リュウに向けて手話を送った。
両手のひらを下に向けて下ろし、続いて拳にした右手を頭につけてから離す。それから左手を上向きに丸めて、右手で皮を剥くような仕草をしてから、最後に、お皿に見立てた左手から何かをすくって食べるような真似をする。
そのどうでもいい情報に、リュウがクスっと笑った。
さなえが言ったのはこうだ。
――「今日・起きて・ミカンを・食べました」
「あ、どうして笑うの?」
さなえとしては真剣なのに、リュウに一笑に付されて、ちょっと傷つく……。
すると、今度はリュウが、親指と人差し指を開いて顎にあてて、その二本の指を閉じながら下におろしてから、さなえを指差した。
――「好きだよ」。
リュウはイタズラに笑って、それから開いた本に視線を落としてしまった。
そのたった一言を残したきり。
多分、ミカンが好きってことじゃ、ないよね?
いまだにリュウがどこまで本気なのかが分からなくてモンモンとさせられるけど、今は深く考える必要はないのかもしれない。きっと、時がくれば、さなえも本物の探偵みたいに、真実を見抜けるときがくるだろうと思うから。
「そういえば、例の『メグたんブログ』を立ち上げた相手がわかったよ」
数馬が自分のラップトップを開いて、中央テーブルにやって来た。
「誰だったの?」
「名前は本城めぐみ、12歳。メイド姿のメグを見て、ずっと憧れてたんだって」
「メグの知ってる子?」
キュウが訊ねると、メグは首を振った。
「ううん」
「本人も反省しているみたい。ブログも閉鎖したよ」
「ありがとう、数馬。いろいろ動いてくれて」
「まだ早い段階で気づいたから良かったのかもしれねーなあ。そういう思い込みって、変な方向に膨れ上がると、手がつけられなくなるからな。今回の事件みてえに」
警備員姿のキンタもカッコ良かったけど、やっぱり、いつものアロハシャツに、破けたジーパンを合わせているラフな格好のキンタが、いつも通りでいいな、と私は思う。
「許せないのは、人のそういう感情を利用して、殺人をけしかけた奴だ。僕は、絶対に許せない!」
キュウの言葉には、その場にいた誰もが同意していたと思う。
だけどリュウは、同意すると同時に、苦しそうでもあった。
リュウは多分、冥王星のことを忌み嫌い、憎んでもいる。にもかかわらず、彼らの存在を完全なる他者とは思えずに、自分をも責めている。
私は何も言えずに、ソファーから立ち上がってリュウの隣に座った。
瞬間、リュウと私の目が合った。
その瞳の中にある闇と光の混在を、解いてあげたい。そのために、私には何ができるのかな。
そこへ、ミッションルームの扉が開いて、車椅子に座った団先生と、そして七海先生が入って来た。
私たちは驚いて、全員、その場で立ちあがった。
「団先生」
団先生はQクラスの6人、全員を等しく見回すと、いきなりこう言った。
「七海から忠告を受けた。そろそろ君たちにも、すべてを話すべきだとね」
団先生は両手に杖をついて、車椅子から立ち上がると、大きな決意を吐きだすかのように、深刻な顔で言った。
「君たちに明かそう。我が宿敵、『冥王星』の正体と、彼らとの戦いの歴史を」
――冥王星。
メグが体を強張らせながら、キュウと目配せした。
それはメグが探偵学園に入学した理由の一つでもあり、さなえのお母さんの死に関わった犯罪組織の名前であるということを、キュウは知っている。
――冥王星。
さなえの脳裏には、ケルベロスの姿が浮かんでいた。あの、狼みたいな男の人。
いつも影のようにリュウに付きまとっている、不気味な人。
――冥王星。
リュウは知らず知らずのうちに、拳を握りしめていた。
いつまでもぬぐい去ることのできない、忌まわしい暗い影。
「冥王星?」
「光あるところに現れず、陰で事件を操る。それが『冥王星』だ」
団先生は杖をついてゆっくりとミッションルームの中を横切ると、部屋の奥のメインデスクに腰掛けた。
「言葉巧みに、人間のわずかな心の隙間に忍び込み、悪意を増長させる。そして完全犯罪の殺人計画を授け、クライアントとなる人々の背中を押す……。冥王星は、あくまでも計画を立てるだけ。実際に殺人を実行したりはしない。つまり、事件に何の痕跡も残すことはない」
団先生が話す横で、七海先生がスクリーンを下ろして、スライドを写し出した。
「あッ!」
スライドに写った男の写真を見て、キュウが驚きの声を上げる。
スクラップマーダーの事件のとき、さなえと一緒に神社を通った帰り道で会った、ケルベロスという名の男だ。
――「天草リュウの正体をご存知ですか?」
あの不気味な影のような男の印象を、キュウは今でも鮮明に覚えている。
「君たちには謝らなければならない。私がかつて壊滅させたはずの冥王星が、再び動き出した事実を黙っていた」
「8年前、奴らの組織を壊滅に追い込んだ代償として、団先生はこのように傷つき、ともに戦った助手は命を落とした。今までお前らが関わった事件はどれも、冥王星が練り上げた計画によるもの」
「かつて私が冥王星と戦ったように、我が後継者となるQクラスの君たちにとっても、この先、冥王星は避けることのできない宿敵となるだろう。だから、君たちには一日も早く、冥王星と戦う力をつけてもらいたい。だからこそ一刻も早く、諸君らを育てたかった」
団先生が申し訳なさそうに、またQクラスの6人、一人一人を見回した。その瞳には、親が子どもに厳しくしながらも、同時に慈しむような温かさがある。
「しかし、私の予想よりもはるかに早く、危機が迫って来た。ここから先は、断固たる信念と決意が必要だ。当然、危険もある。むろん、強制はしない。出て行きたいと思う者が現れても、それは仕方のないことだと思っている」
私たちは今、ふるいに掛けられている、とさなえは思った。
団先生の後継者候補としてQクラスにいることがどれほど重たいことなのか。それを、さなえはこの時初めて思い知った。
命がけだ。
これまでは、事件の中には被害者が他にいた。
でもこれからは、仲間が目の前で傷つくのを見ることになるかもしれないんだ。メグや、キュウが。数馬やキンタが。そして、リュウが……。
次のページ 5話2