ヤコブソン一家の四兄妹  「長男、モーレックの物語」














――天才的な策士。
 モーレックは自分が天才であるということを、まだ知らなかった。それは、育ての母、アガサが天才だからでもあった。
 たった八才で科学雑誌を読み、まだ歯が生え始める前から言葉を話したモーレック。チェスの勝負でモーレックと対等に
勝負できるのが唯一、母親のアガサだけだということさえ、モーレックはまだ、さして気にとめていなかった。
 弟たちは、兄であるモーレックには逆らわない。ママから一番の信頼を得、言葉一つで弟たちを従える長男。何よりモー
レックは「妹と弟たちを守れ」というパパの教えを、いざというときに必ず実行する勇気と決断力を持っていたからだ。
 長男、モーレックは天才博士。
 次男、マリオはモテモテの色男。
 三男、ラルフはカッコつけの大将。
 長女、ハーピーは小さなお姫様。


 数日降り続いた雨が上がった、ある日曜日の午後。ロサンゼルス郊外の古城に住む一人の少年に、思いもよらない転機が
訪れようとしていた。
 世界には、目に見えない境界がある。それは、どん底の人生から、人々を幸せで満ち溢れる人生に転機させたり、――あ
るいはその逆であったりするものだ。結局、多くの人々は自分に訪れた境界には気づかない。だが、しかし、もし彼女が風
の音を聞きわける心の敏い人であるなら、もし愛を求めて彷徨う彼が孤独の空に星を見つける知恵者であるなら、彼女は、
あるいは彼は、境界の存在を知ることができるだろう。
 人は忘れる。だが同時に、人は決して忘れない生き物である。
 一度境界の存在に気付いた人々は、自分がそこを通った経験を生涯心にとどめ、決して忘れまいと自らに言い聞かせる。

 この日、ヤコブソン一家の長男に訪れたのは、そんな境界だった。



「パパと一緒に買い物に行ってくるから、いい子にしてるのよ? 何かあったらすぐに電話すること」
 ママがキッチンの家族用連絡ボードに、「パパとママ、モールに買い物」と書いて、その下に携帯電話の番号を記したメ
モを貼った。
「帰りは何時頃?」
 キッチンで科学雑誌を読んでいた僕は、ママに聞いた。
「そうね、四時頃になると思う。一時間もしないうちに戻るわ。弟たちをよろしくね、モーレック」
 僕が頷くとママは僕の金色の前髪をかきあげて、おでこにキスをした。 
「ふーん、『ネアンデルタール人は私たちの祖先ではない?』、興味深い記事ね」
 僕の読んでいたネイチャーを覗きこんでママが言った。
 ママはバイオサイエンティスト――つまり、科学者だ。僕はママと科学の話をするのが好きで、大きくなったら、ママみ
たいな科学者になりたいと思っている。
 僕はママに応えた。
「イギリスのグラスゴー大学の教授が、カフカス山脈で見つけたネアンデルタール人の化石からDNAを抽出することに成
功したのだって。それを分析したら、現代の僕らのDNAとは全く連続性を見いだせない結果が出たらしい……」
 八才の僕が真面目な顔で言うのを、ママはふふんと笑う。
「やっぱりね、ママは初めからそう思ってたのよ。猿から人間が進化したなんて話は、やっぱり科学的にどこかおかしいも
の。だから、人類の歴史をDNAレベルで検証してみたのは、実に面白い取り組みだと思うわ。ネアンデルタール人がもし本当
に私たちの祖先であるなら、当然、私たちのDNAとは、少なくとも数パーセントはアレルが一致するはず」
「そうだね」
 僕は頷きながら、別のことを考えた。
――もし、ママと僕が血のつながった親子であるなら、十五個ある常染色体の遺伝子座のうち、七個以上は同じになるはず
だった。つまり、常染色体のアレルは血の繋がった親子であれば少なくとも四十六パーセントは一致するということ。
 僕はママを見て悲しくなった。
 全然違う。ママの髪の色は黒だけど、僕の髪の色はホワイトブロンドで、ママの目の色は黒だけど、僕の目の色は青だ。
 なぜって? 僕はママの本当の子どもじゃないからだ。
 僕は冷静を装って、科学雑誌に夢中になっているふうにした。
 その時、弟のマリオがやって来てママの足にしがみついた。
「どこにいくの? なにを買いにいくのさ?」
 ママがマリオをハグし、そのダークブラウンの髪の中に「んー!」とキスをした。
「いつものモールに、夕飯の買い出しに行って来るの。今夜はクリームシチューを作るんだから、いい子にね」
 次男のマリオは、僕ら四人兄妹の中で一番の甘えん坊だ。でも、僕はマリオがママの前でだけ猫かぶりをしているのを知
っている。マリオは女の子の前では王子様気どりのキザ男で、悪ガキたちの前では正義の勇者様気どりで拳を振りまわす。
本当に喰えない奴だ。
 僕はママにじゃれつくマリオを無視した。
「お兄ちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ」と、ママに言われて、「うん」と頷くマリオは、とろけるブラウンアイズで
ママを見上げると、まるで戦国時代にお姫様との長き別れを惜しむ勇者様よろしく、もう一度ママにキスを求める仕草をし
た。
 いつものことだ。白々しい奴め。――僕は心の中で悪口を言った。
 マリオの調子に合わせて、ママはお姫様みたいに大袈裟に感嘆の息を漏らすと、マリオの顔に弾丸キスをいくつも落とし
て、とどめにマリオのほっぺをアブッとやった。そこまでされてようやく、マリオが降参してママから離れる。
 僕は科学雑誌から顔を上げた。妹のハーピーがおぼつかない足取りでキッチンに入って来たらしい。
「ママ、おにいちゃんがいじめるの。たんけんにつれていかないってゆーのよ」
 えらく鼻にかかる舌足らずな発音で妹のハーピーはいきなり僕らの秘密の問題を提起した。
「あらあら」
 ママがハーピーのほつれた髪を指でとかして、グズついているハーピーをなだめようとした。ついさっきまで昼寝をして
いたハーピーの黒髪は、寝ぐせで撥ねている。
 さてはラルフの奴だな、と、僕は思った。僕のもう一人の弟、三男のラルフはすぐにハーピーを仲間外れにしようとする
のだ。
 妹の後を追いかけてやって来たラルフが不機嫌に眉を寄せて、キッチンの入り口に立ち、両腕を組んでハーピーをねめつ
け始めた。
 ママが溜め息混じりにラルフに視線を向け、困った顔をする。僕もため息をつく。
 三男のラルフは立ち居振る舞いがパパにそっくりだ。まだ五歳になったばかりなのに、ラルフはことさらお洒落にうるさ
くて、いつもパパの真似をしてネクタイを締めたがる。
 今日もラルフは、子ども用のワイシャツにネクタイを締めて、アイロンのかかった黒のパンツをバッチリ決めていた。ま
るで、パパのミニチュアだ。
「探険て、何のこと? 何するつもりなの」
 ママの問いに、三男ラルフが鼻高々に秘密をばらした。
「ぼくら三人で、森にいくのさ。雨がふったから、沼ができていやしないかって見に行くんだよ。ハーピーは足でまといに
なるから、つれていかないのさ」
――内緒にしておけと言ったのに……。
 僕は心の中でゲンナリした。というのも、森への探険はハーピーがお昼寝をしている間に兄弟三人だけで秘密で行こうと
計画していたからだ。ハーピーが知ったら、絶対に一緒に行きたいと言い出すに決まっていた。
 たちまち、ハーピーが顔を歪めてママに抗議の目線を送った。
 ママはまだ小さいハーピーを抱き上げると、諭すようにラルフを見下ろした。
「ダメよ。ママとパパが留守にするときには、いつでも兄妹四人で一緒にいるって約束でしょう。三人で森に探険に行くな
ら、ハーピーも連れて行きなさい」
「やだね!」
 ラルフが腕組して口を尖らせ、ハーピーを睨みつけるが、それに対してハーピーはこれ見よがしにママの首にしがみつい
て応戦した。ママを味方につけたつもりなのだ。
「何をもめてるんだ……」
 話し合いが難航しかけたとき、ダークスーツに身を包んだ背の高いパパが、キッチンに入って来て気だるそうに壁に寄り
かかった。
「アガサ、早くしてくれ、待ちくたびれて死にそうだ」
「ドラコ、子どもたちが森に探険に行くらしいの。ハーピーも一緒に連れて行くように、息子たちにアドバイスしてくれな
い? ラルフが言うことをきかないの」
「またお前か、大将」
 キッチンの入り口で精一杯肩を怒らせているラルフを見下ろして、パパがニヤリと笑った。
 僕とマリオは、二人揃ってパパに目配せをした。ハーピーを森に連れて行くなんてダメだってことを、パパなら分かって
くれるはずだ。パパが上手くママを説得してくれることを僕らは期待した。
 けどパパは、僕たちの無言の訴えには耳を貸さず、かわりにママの腕の中から可愛いハーピーを抱き上げた。
「まったく、ちょっと森に行くくらいで妹を足手まといにしているようじゃ、お前たちもまだまだだな」
 と、パパが言ったので、途端にマリオが戸惑い顔で両手を広げた。
「だって、女の子は男の子とちがうでしょ? 男の子は外に出て汚れてもいいけど、こんな雨の日は女の子はきれいにして
お城にいるものさ。それが男と女の『きょうかい』なのさ!」
 六歳のマリオは難しい言葉がまだ苦手だ。それでもマリオは、ハーピーの着ている白いワンピースと、自分の着ている破
れたデニムをそれぞれ指差して、ハーピーが自分たちとは違い、ふりふりのワンピースを着るような女の子なのだ、という
ことをパパに強調した。
 僕もマリオと同じ考えだった。
 するとパパは言った。
「いいか、色男。その考えは間違ってないが、全てじゃない。例外もあるんだ」
「れいがい?」
 マリオがきょとんとして聞き返す。
 パパはマリオの頭に手をのせた。
「例えば女の子が『どうしても行きたい』と言い出したら、男はどんな所にでも彼女を連れて行かなくちゃならないんだ。
パパだってママを近所のショッピングモールに連れて行くんだぞ。ひどいと思わないか? 男としての魅力をまったくアピ
ールできない退屈なショッピングモールに、ただ重たい荷物をロバのように運ばされることが分かっていて、銃も持たずに
出かけるんだ。なぜって、愛する人に文句は言えないからな。どこに居てもパパはママを守る、それだけだ。モールでも森
でも戦場でも、関係ない」
「まもる?」
「そうだ。いいじゃないかお前たちは。森の方がモールよりずっとロマンチックだろう」
 パパの言葉に、ママが何も言わずに肩をすくめている。
 どうやらパパは、食料品の買い出しにショッピングモールに付き合わされるのが不満のようだ。しかも、どういうわけか
パパは銃の携帯をママに禁じられてしまったらしい。
「じゃあパパも、ハーピーを森に連れて行けと言うんだね?」
「そうだ。怪我をしないようにお前たちがお姫様を守るんだ」
 そう言ってパパはハーピーにキスをして、まるで本物のお姫様を取り扱う様に、フワリと地面におろした。
 ラルフが地団太踏んで首を振った。
「泥んこになって、早くかえりたいとわがままを言うにきまってるよ! 泣くかもしれないし」
「いいか、大将」
 パパが真剣な顔になってラルフの肩に手をかけ、マリオと僕にも「こっちに来い」と手招きした。
 そしてパパは僕たちの前に屈みこんで、小さな声で囁いた。多分、ママやハーピーには聞かせないようにするためだろう
。僕たち三人は、体を寄せてパパの言葉に耳を傾けた。
「男は、守るものがあってはじめて本当に強くなるんだ」
 パパは神妙に言った。
「パパがママを守っているように。分かるな? ラルフ、兄貴たちと一緒に妹を守るのが、大将の務めだぞ」
 パパの言葉に、ラルフがふっと口を閉ざした。その目が途端に輝き始め、口元が嬉しそうに吊り上がる。
「お姫様を頼むぞ」
 パパが僕たち兄弟を順々に見回したので、僕らはみんな、パパに約束して頷いた。
「何を話してるのよ」
 ママは首をかしげている。
 パパとママが仲良く買い物に出かけるのを見送る時、僕はママにだけ聞いてみた。「どうしてパパは今日、銃なしなの?
」と。そしたらママは笑って、「パパがママに内緒でノストラードファミリーとドンパチやったからよ」とウィンクした。



 僕のパパ、ドラコ・ヴィクトル・ヤコブソンはイタリヤのマフィア、アルテミッズファミリーの出身だ。世界に名を馳せ
るアルテミッズファミリーは、今や各国に自分たちの根を張り、その領域を拡大していた。
――コーザノストラ、全ては我らの物。
 それが彼らアルテミッズファミリーの合言葉だ。
 パパはもともと、ニューヨークにアジトを張るアルテミッズファミリーの幹部だったが、今からちょうど八年前、仕事で
パパが生涯最大とも言えるピンチに陥ったとき、偶然、ロサンゼルス郊外の古城に住むママと出会った。そのときから、二
人の長い恋の歴史が始まったのだという。
 トラブルを巻き込みやすいパパの職業柄、僕らヤコブソン一家はこれまでにしばしば、命を狙われる危険な目にあって来
た。その度に修羅場をくぐり抜けて来た僕らは、幼いながらに自分たちの父親が何者であるのかをよく知っていた。そして
そんな父親に対し、とりわけ僕ら三兄弟は深い尊敬と、憧れの念を抱いているのだった。
 今までに何度も「ママ」を命がけで守るパパの背中を見て来たからだ。

             

 かくして、――女の子を守り、強い男になること。という教えをパパから受けた僕らは、妹を連れてジメジメした森へと
出発した。
 先頭を歩くのは長男の僕。そのすぐ後をついて来るのが三男のラルフ。そして一番最後を、ハーピーの手を引く次男のマ
リオが続いた。
 マリオはハーピーのことを、いつも女の子として丁寧に扱っていた。何と言ってもパパから『色男』と呼ばれるほど、マ
リオは女の子には優しいのだ。
「ハーピーがいるから、いつもの近道は通れない。なあ、兄さん」
 ぬかるんだあぜ道を慎重に進んでいた僕は、マリオの呼びかけに足を止め、振り向いた。
 マリオはママがいないときには途端に男気が増す。
 例えば、自分の好きな女の子を苛められたときや家族の悪口を言われたりしたとき、マリオはその相手を絶対に容赦しな
かった。そんな時のマリオは、問題児でケンカっぱやい三男のラルフよりも突拍子もなく過激な行動をとるから、手に負え
ない。だから生意気なラルフでさえ、マリオには一目を置いているほどだ。
 僕はフウと息を吐く。
 三男のラルフも次男のマリオも、僕とは違う熱血漢の武道タイプ。僕は暴力は嫌いだった。殴れば痕が残る。痕が残れば
先生に呼び出されて罰を受ける。だから僕はどちらかと言うと、言葉で穏便に解決を図る方を優先的に選択するタイプだ。
 ちょっとコツさえつかめば、言葉は拳よりも凶暴で鋭い剣になる。その剣でどんなに人を傷つけても、痕は残らない。 
「近道はダメだな。少し遠回りだけど、安全な道を通って沢まで行こう」
 と、僕はマリオに応えた。
 マリオが安心したように頷く一方で、近道を通って早く目的地に着きたいラルフは不満顔だ。
 僕にはラルフの気持ちが分からないでもない。近道を通れば、五分もかからずに沢までたどり着けるからだ。でも、近道
は深い茂みになってぬかるんでいるから、サンダルをつっかけた妹のハーピーを連れて行くには理想的とは言えないのだ。
 僕はラルフのねめつける視線を背負いながら、ミントの植わった安全な小道を進んで行った。
 だがしかし、安全だと思われたその道も、数日降り続いた雨のせいで酷くぬかるんでいた。華奢なサンダルを履いた妹の
手を引くマリオが、僕とラルフから少し遅れた。
 僕は、ハーピーはきっとすぐに根を上げて帰りたいと言いだすはずだと思ったから、道が悪くてもどんどん森の奥に進ん
で行った。
 そうやって森を進んで十分くらいがたった。
 ハーピーは辛抱強くついて来た。花飾りのついた白いサンダルが泥まみれになり、フリルのついたワンピースに染みがで
きても、ハーピーは文句を言わずに、小さな手でマリオの手を握って、慎重に歩みを進めている。
 僕は額の汗をぬぐい、歩く速度をゆるめた。
 蒸し暑い午後だった。
 空がどんより曇って、森に分け入るほどに辺りが暗くなる。いつもはキリキリ響く蝉の鳴き声も、今日はなんだか元気が
ないようだ。
――ゲロゲロッ
 雨蛙が鳴いた。
 僕は足をとめ、空を見上げた。
 分厚い樹木の覆いがあるので、空はちぎれちぎれにしか見えないけど、どうも雲行きが怪しくなってきたみたいだ。また
雨が降るかも知れないな、と僕は思った。
 弟たちが僕に追いついて来て足を止め、空ではなく、僕を見つめた。進むのか帰るのか、僕が何て言うのかを待っている
のだろう。
 僕が思案していると、妹のハーピーが言った。
「おおきなフキの葉っぱで、カサをつくるのはどう?」
 僕が困っていると思ったのだろうか。ハーピーは真剣な顔で、近くにあったフキの葉を指差した。棘のように細い指だ。
 ラルフがムっとふてくされた。
「お前はだまってろ。男は傘なんかささないんだ。雨にぬれるのなんて、へいきなのさ」
 ハーピーが飛び出すほど目を丸くして頬を赤らめた。
 僕はラルフを無言で睨みつけて、首を振った。
「そうだね、ハーピーの言う通り雨が降ったらフキの傘をさそう。さあ、あと少しだから進もう。沢の辺りが沼になってい
るかどうかを見て、すぐに帰ることにしよう」
 僕は再び歩き出した。弟たちが後に続く。
 やがて薄暗い森の中に蝉の声は消えて、代わりに水の流れる音が聞こえて来た。
 ラルフが僕を追い抜いて急な斜面を駆け上って行った。坂を上った先に、目当ての沢があるのだ。
「ラルフ、気をつけろ」
 道が滑りやすくなっていることに気づいて、僕は弟に注意する。
「きゃあ!」
 転んだのは、ラルフではなくハーピーだった。僕のすぐ後ろで、ハーピーがマリオに手を引かれたまま、地面に膝をつい
ていた。ハーピーの白いワンピースと、細い足が、粘土質のヌメリとした泥で真っ黒に濡れて光っていた。
「大丈夫か?」
 と、マリオが自分も転びそうになりながら、ハーピーをひっぱり起こした。
「だいじょうぶ」
 ワンピースがひどく汚れてしまったことにショックを受けた顔をしながら、ハーピーはグッと歯を食いしばって立ち上が
った。鼻を膨らませて、涙をこらえているのが分かる。
 その時、斜面の上からラルフが叫んだ。
「来て! すごいよ、虹だ!」
 泣きだしたらおんぶだな、と僕が先の展開を考えた矢先、『虹』という言葉に反応して、途端にハーピーの顔が明るくな
った。
 滑りやすい急な斜面を、マリオと僕は二人がかりで、妹の手を引いて上った。水の流れる音がどんどん近くなり、辺りに
白いしぶきが上がっているのが見えた。
 斜面を登り切った先に現れた小さな沢に、無数の水の粒が飛び交っている。
 沢の下を流れる跨げるほどの小さな川で、僕らはいつも水遊びをするのだが、ここ数日降り続いた雨のせいで、小川はい
つもよりも水かさが増し、驚くほどに深い川になっていた。山上から流れて来る水が、岩肌に小さな滝を作りだしている。
 木々の間から差し込むわずかな光が、滝の吹きだす水の粒を七色に煌めかせていた。虹は僕たちの手の届く高さで、妖精
の通り道みたいにキラキラと揺らめいていた。
「すごーい!」
 ハーピーが僕とマリオの手をはなして、両手を虹の中に伸ばした。
 僕でさえ感動して息を呑む。テレビで見たオーロラみたいに、幻想的で、まるで魔法みたいだった。
 それに、ここ数日の大雨でいつもと違う風景になっている僕らの遊び場の変貌ぶりに、僕は驚き、すっかり夢中になった

 額に水滴が当たり、僕はぼんやりと雨が降って来たことを感じ取った。
 けれど、そんなことより僕たち兄弟は、ぬかるんだ泥の深さを枝で測ったり、いつもより水かさの増した川に石を投げ入
れて深さを確かめたりすることに大忙しで、すぐに帰ろうと言ったことも忘れてしまった。
 だから、気付かなかった。
 僕たち兄弟がほんの束の間、妹から目をはなしている隙に、ハーピーが何をしようとしていたのか、誰も見ていなかった
のだ。
 僕が小川にダムを作ろうとして、ちょうど川幅を測ろうとしていたときだった。
――ガサガサ!
 突然、何かが滑る大きな音がして、僕は顔を上げた。
 弟のマリオとラルフと目が合った。
 僕は立ち上がった。
「ハーピー?」
 僕は何が起こったのか分からなかった。
 ハーピーの姿がどこにもない。
「ハーピー!」
 辺りを見回して、さっきまですぐそこにいたはずの妹の姿を探すけど、影も形もない。僕は全身に緊張が走るのを感じた

 弟たちも口々に妹の名を呼び、辺りを探し回り始めた。
 ぬかるんだ深い泥の中や、生い茂る草の間を掻き分けて妹を探した。着ている服が泥に汚れてどんどん黒くなっていくけ
ど、少しも気にならなかった。僕の心臓は、死にそうなほどドキドキしていた。
「ハーピー!」
 空が暗くなり、虹が消えた。雨粒が僕の額に二つあたった。
 雨が降って来たことをさっきよりも確かに感じとると、僕の頭に小さな妹の顔が浮かんできた。
――「おおきなフキの葉っぱで、カサをつくるのはどう?」
――「そうだね、雨が降ったらフキの傘をさそう」
 さっきまで、そんなふうに話していたのに。
 僕の心は重力を失ったみたいに、ひどくフラフラした。どうしてちゃんと見ていなかったんだろう。守るって、パパと約
束したのに。……もしもハーピーを見つけられなかったら、ママはどんな顔をするだろう。
 妹から目を離した自分を憎らしく思いながら、僕は絶望的な気分でもう一度辺りを見渡した。沢の縁に生える大きなフキ
の群落が目に入った。傘を作るには丁度よさそうなフキの葉っぱだ、と、僕は思った。
 僕はハーピーの面影を求めて、フキの群落に近づいた。
「フキで傘を……」
 手を伸ばした僕は、ハッと足を止めた。
 何かが聞こえたような気がした。でも、フキの群落の中にハーピーの姿はない。
「ハーピー!」
 弟たちが騒々しく辺りを探しまわっている。
 僕は弟たちを振り返った。
「シーッ、静かに!」
 弟たちが僕を見て、不思議そうな顔をした。僕は人差し指を口に当て、耳をすました。
 水の流れる音の中にかすかに、それは聞こえた。
「声が聞こえる!」
 でも、どこからだ?
 僕は耳に手をかざして、身をかがめた。確かに聞こえる、――泣き声だ。
「ハーピー!」
 雨が降っていた。目の前のフキが、僕の目の前で突然、存在感を増したように思えた。
 もしかしたらハーピーは、フキで傘を作ろうとしたのかもしれない。そうだとしたら、一体何が……。
 僕は不思議に思いながらも、慎重にフキの根を掻き分けて、妹の姿を探し始めた。
 次の瞬間、僕は突然ツルっと足を滑らせてバランスを崩し、すんでの所で木の根につかまって体を支えた。
「あぶない!」
「モーレック!」
 弟たちが慌てて駆け寄って来た。
 なんと、沢の縁に生えていたフキの群落の中は、切り立った窪みになっていて、僕はそこに危うく足を滑らせて落ちると
ころだったのだ。
 窪みの中に雨水が勢いよく流れ込んでいる。
 岩肌にできた滝はここにつながっていたのか、と理解して、まるで滝壺みたいだな、と僕は思った。
 僕は身を乗り出して窪みの中を覗き込んだ。
 首まで泥水につかってすっかり青白くなったハーピーが、木の根にしがみついているのが見えた。頭から水しぶきを浴び
て、今にも押し流されてしまいそうだ。
「ハーピー! 落ちたのか!」
 僕は泥の上に腹ばいになって崖下に手を伸ばした。でも、パーピーのいる所までは全然届きそうにない。
「手をはなさないで、今助ける!」
 ハーピーは、勢いよく流れる水に煽られて、少しずつ木の根から引きはがされて行く。
――ハーピーは泳げない。
 僕は素早く頭を回転させ、弟たちを振り返った。
「マリオ、急いで城に帰って、ママとパパに電話しろ。ハーピーが沢に落ちたって伝えるんだ!」
 事態がただごとではないことを、マリオは僕の口調から察したようだった。
「それから、納屋からロープを取って戻って来てくれ! 三人でハーピーを引きあげるんだ」
「わかった」
 マリオは迷うことなくすぐに走り出した。ここに来るために歩いて来た小道ではなく、城へ続く最短ルートである秘密の
近道を、一目散に駆けていく。
 僕はマリオが駆けて行くのを見送りながら、頭の中で計算し、胸が締め付けられる思いだった。マリオがどんなに早く走
っても、間に合わないことは明らかだった。ママとパパに連絡をして、ロープを持って戻ってくるには、少なくとも十分は
かかるだろう。滝壺の中のハーピーがそれまで木の根にしがみついていられるとは思えなかった。
 僕はもう一人の弟に目をやった。
「ラルフ、太くて長い、吊る草を探して来い。秘密基地を作ったときにロープ変わりに使ったような丈夫なやつだ。ハーピ
ーなら、吊る草でも引っ張り上げられると思う」
「わかった」
 ラルフが頷き、吊る草を探しに茂みに入って行ったのを見て、僕は大きく深呼吸した。
 そして、僕は飛んだ。
――ガサガサ、ドボーン!
「何やってんだよ!」
 ラルフがよろけながら、滝壺を見下ろして来たので、僕は怒鳴った。
「危ないから、お前はこっちに来るな!」
 一刻も猶予はなかった。ロープも吊る草も間に合わない。弟たちが戻るまでの間、誰かが妹を支えなければならなかった

 僕は勢いよく流れる水の中でハーピーを後ろから抱え上げ、自分も木の根にしがみついた。思ったよりも水の流れが強く
て、ハーピーがそれまで一人で耐えていたのが奇跡に思えた。
 窪みがどれくらい深いのか検討もつかない。足がつかなった。きっと大雨のたびにここに滝ができて、この下は深くえぐ
られているに違いない。
 もしもこの水の勢いに流されたら、泳ぐのは無理だ、と僕は思った。
 水は不気味なほどに生ぬるかった。ハーピーは嗚咽をもらしながら声も出せずに泣いている。絶えず頭に水が降り注いで
くるから、きっとかなり水を飲んだのだろう。
 ハーピーの体を支えながら、僕は驚いた顔で見下ろしているラルフに言った。
「ロープは待てない、早く吊る草を探して来い!」
 ラルフがハッとして崖っぷちから姿を消した。吊る草は、きっと、すぐに見つかるはずだ。
 僕は心の中で自分に言い聞かせ、妹を励ました。
「大丈夫だよ、ハーピー。マリオがパパとママを呼びに行った。それに、ラルフが吊る草を見つけて来るはずだ。すぐにこ
こから出られるよ、大丈夫だから、手を放さないで」
 小さな白い手で木の根にしがみつきながら、ハーピーはオイオイ泣き始めた。
「へびがいる」
 と、唐突にハーピーが呟いた。
「え?」
「さっきからずっと、こっちをみてる」
 ハーピーの言葉に、木の根で覆われた狭い滝壺の中を見回した僕は、白い鎖のようなものがその中の腐りかかった根の一
つに絡みついているのを見つけて、ギョッとした。
 三角に尖った鎖の先端がアルファベットのSのような曲線を描いて、真っすぐにこちらを向いていた。
 こんなに近くにいるのに、どうして気付かなかったのか。体長四十センチほどはありそうな白い蛇が、今まさにゆっくり
と体を滑らせて、ハーピーのつかんでいる木の根に近づいていた。
「じっとして、ハーピー。声を出しちゃいけないよ」
 ハーピーは目の前に迫りくる白蛇から片時も目を離さずに、僕の言葉にかすかに頷いた。
 僕はハーピーの体を片手に抱いて、反対側の手で別の木の根につかまり、ハーピーを蛇から遠ざけた。
 つかむところを失ったハーピーが僕の体にしがみつく。
 網目のように並んだ白い斑紋が水に濡れて光り、白蛇は僕たちに近づくほどにギリギリという不快な音をたてた。そして
奴は、スプーンのように首をもたげ、狙いを定めるようにピタリと動きを止めた。
 それを見た僕は、噛みつこうとしているのだ、と、直感した。
 その白蛇が毒蛇なのか、それとも噛まれても大したことのない蛇なのか、僕には分からなかった。でも、「この山には毒
蛇が出るから、森で蛇に遭遇しても絶対にイタズラしちゃダメよ」、と、いつもママに言われていたことを思い出し、僕は
ぞっとする。
「吊る草見つけて来たよ! 今落とす!」
 間の悪いことに弟のラルフの大きな声が蛇を刺激した。途端に蛇の頭が真っ二つに裂け、真っ赤な口の中で白い牙が剥き
出しになった。
「キャーーー!!」
 ハーピーが甲高い叫び声を上げ、僕の首にしがみついた。
 瞬間、白蛇が閃光のように僕の腕に飛び、噛みついた。牙が皮膚を貫く痛みが全身に電撃を流し、僕はビクっと震えた。
 僕にはなすすべがない。片手で妹を抱え、もう片方で木の根にしがみついているのだから、どちらの手も離すことが出来
ない。
 喰らいつき、体をのたうつ白蛇に、僕は酷くショックを受けた。肉体的な痛みよりも、精神的なダメージに僕は吐きそう
になった。これほど蛇を気持ち悪いと思ったことはない。
 そしてすぐに、蛇がもたらす苦痛は肉体にも影響を及ぼし始めた。
 噛まれた所からたちまちイヤな痺れが広がって、僕の体に、今までに一度も体験したことのない悪寒が走った。
――バシッ!
 不意に振りおろされた枝が、僕の腕から生えた蛇を叩いた。
 ラルフだ。沢の上から身をのりだし、長い枝を振りまわして何度も、何度も、僕の腕に絡みつく白蛇をバシバシ叩く。
 このときほど、恐い者知らずのラルフに救われたと思ったことはない。
 ついに白蛇はラルフの執拗な枝攻撃に吹き飛ばされて、勢いよく流れる水の中に落ちた。
 蛇が再び水に浮かび上がって来ることはなかった。
「大丈夫かい!」
 ラルフが心配そうに見下ろしている。僕の腕にできた二つの穴から、赤い筋が広がった。
「おにいちゃん、ち!」
 と、僕の耳もとでは、ハ―ピーが甲高く叫んでいる。
「平気さ」
 何故だかすごく気分が悪かったが、まだ生きているという意味をこめて、僕は「平気」と言った。
 ラルフが見つけて来た吊る草を降ろしてきたので、僕はそれをハーピーに握らせた。
「ハーピー、絶対に手を放さないで、いいね。ラルフ、僕が下から押すから、引っ張ってくれ。ちょっと待ってその前に、
吊る草の反対側をちゃんと木に結び付けたか?」
「もちろんさ」
 と、ラルフが誇らしげに頷いた。いつも森でレスキューごっこをして遊んでいるから、抜かりはないということだ。それ
に、火起こしとロープの結び方は、ボーイスカウトで一番最初に習うことだった。
 ハーピーにしっかりと吊る草を握らせ、余った分の長さで吊る草をハーピーの脇下にぐるぐる巻きにして、僕はラルフに
合図した。
「ひっぱるよ!」
「ハーピー、さあ上って」
 僕は力いっぱい、ハーピーを押し上げた。ラルフが吊る草を引き、ハーピーを引きあげる。ハーピーは滑りながら足をバ
タバタさせて少しずつ上って行った。
 そうやって、僕らがなんとかハーピーを滝壺から救出した直後、ロープを肩に回したマリオが息を切らして戻って来て、
窪みの中を覗きこんできた。
「ああ良かった、間に合わないかと思ってたんだ」
 マリオが、引き上げられた妹の姿と、滝壺の中の僕を交互に見てホっと胸をなでおろす。
「兄さん、生きてるかい!」
 冗談混じりに僕に声をかけるマリオは、全身泥まみれだ。頬も顎も、ベッタリと黒くなっていて誰だか分からないことに
なっている。おそらく、滑りやすくなっている森の中で何度か激しく転んだのだろう。運動神経が抜群にいいマリオは、森
の中でも滅多なことでは転ばない。それだけに、妹のために必死で走ったのだな、と、僕はマリオのことを少し誇らしく思
った。
「死にそうだ!」
 と、僕は返事した。
「もう少しのしんぼうだよ、ほら!」
 マリオが僕にロープをたらしてきた。
「このロープ、反対側をちゃんと木の幹に縛り付けてあるか?」
「もちろんさ、僕を誰だと思ってるの」
 マリオが崖の上から僕に手を伸ばした。
「ママたちは」
 僕はマリオに助けられて滑りやすい崖を上りながら、急にママが恋しくなって問いかけた。
「ママに電話したら、つながらなかったんだ。だからパパにかけた。『すぐに戻る』って言ってた」
 水から上がった僕は急にブルブル震えだした。なんだか、とても寒い。それに吐き気がした。
 マリオがそんな僕に気づいて、眉をひそめた。
「どうしたんだ?」
「蛇に噛まれたんだ」
「どくへびかい?」
「分からない。でも、吐き気がする」
 僕の右腕からは、どす黒い血がたらたらと滴っていた。噛まれただけにしては出血の量が多いように感じた。
――もしかしたら本当に毒蛇かもしれない。
「急いで帰ろう」
 マリオが張り詰めた声でそう言った。その意見に僕も賛成だ。だが、しかし。
 僕はぼんやりする頭で妹を見つめた。
 ハーピーは足をひどく擦りむいていて、サンダルが片方なくなっている。滝壺に落ちた時に水に流されてしまったのだろ
う。
「大丈夫、僕がハーピーをおんぶするよ。近道を通って家に帰ろう」
 そう言って、 ハーピーを背負うマリオを先頭に、僕らは茂みを掻き分けて急いで帰途に着いた。
「大丈夫かい」と、珍しく弟のラルフが何度も心配そうに僕を振り返った。その度に僕は何度も「平気だよ」と答えた。
 黙々と茂みの中を進みながら、僕はフラフラして何度か転んだ。足にうまく力が入らなくなっていた。
 もしかしたら、という考えが頭に張り付いて離れない。……あの白蛇は本当に毒蛇で、僕はその毒で死ぬのだろうか、と
いう恐ろしい考えだ。
 僕は怖気づいてしまって、どうしようもなく震え始めた。とても寒かった。
 僕が死んだら、ママはどんな顔をするだろう。パパはどう思うだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、僕はふっと
息を吐いた。
 二人とも僕の本当のママとパパではないんだった。僕は急に、一人ぼっちの気になった。
 森が途切れて視界が開けると、落ちてきそうなほどの曇天が、大地を圧迫するように低い雷鳴を轟かせていた。城が見え
た。
「ママ!」
 ハーピーが叫んだ。
 マリオの連絡を受けたママとパパが、買い物先から帰って来たのだ。
 僕たちを見つけて、ママとパパが傘もささずに駆けよって来た。マリオがハーピーを背中からおろすと、末っ子のハーピ
ーは泥水をはねながらママに飛び付いて行った。
「無事でよかった!」
 ママがハーピーを抱き上げ、その存在を噛みしめるようにギュっと強く抱きしめるのを見て、僕は胸がキュンとした。ハ
ーピーはママとパパの本当の子だ。
 やがてママは、嬉しそうに弟たちを見た。
「ママ!」
 マリオとラルフが駆け寄り、こらえていたようにママに抱きついた。
「みんな野良犬みたいに泥んこだな……」
 酷くヨレヨレの僕らの様子に、パパは少し離れた所から驚いた顔で見つめている。
「モーレック」
 弟たちと抱擁を交わしたママが、最後に僕を見て、両手を広げて笑った。
「ママ……」
 僕は急に体から力が抜けてしまった。
 まるで緊張の糸がプツりと切れたみたいに、僕は声を上げて子どもみたいに泣き始めた。
 弟たちの前で泣くなんて、カッコ悪いと思ったけど、どんなに力を入れてこらえようとしても、僕は泣くことを止められ
なかった。
――僕は死ぬのだろうか。僕は本当に愛されているのだろうか。
 頭の中を駆けまわる二つの問いが、僕には同じ意味を持っていた。
 恐くて震えが止まらない。
「モーレック、どうしたの? 大丈夫よ」
 ママは地面に膝をついて僕を引き寄せ、強く抱きしめてくれた。
「おにぃちゃん、わたしのためにサワにとびこんだの」
「ヘビにかまれたんだ!」
 と、ハーピーとラルフが同時に言った。
「蛇に噛まれた?」
 ママが僕の顔を覗きこみ、急に険しい顔になった。そしてすぐに、僕の右腕にできている小さな噛み傷に気づいた。
 僕の腕の傷を注意深く確認してから、ママは僕を落ちつかせるように僕の背中をさすった。――温かかった。
 そのとき僕はどうしてなのか、昔のことを思い出した。今より僕がもっと小さかったときに、ママと一緒に寝た夜のこと
だ。僕は嵐の夜が恐かった。そして一人でいる暗い部屋が恐かった。眠るとよく見る赤ん坊の頃の夢も、すごく恐かった。
でもそんなときはいつも、ママが僕の背中をさすって抱きしめてくれた。
 僕の涙はいつの間にか止まった。
「どんな蛇だった?」
 と、ママが聞いた。僕を落ちつかせるように静かに言ったけど、目は真剣だった。
 僕はあの白蛇の特徴をよく覚えている。一度見た物を、僕は絶対に忘れない。
 ママの腕の中で、僕は答えた。涙で鼻がつまって話しづらかったけど、正確に答えることが必要だった。
「白っぽい蛇だった。白い模様が、鎖みたいに見えて、ノコギリで木を切るような音を出してたんだ」
「毒蛇だな。アイツに違いない」
 と、横で聞いていたパパがいきなりズバリと断言した。
 歯に物着せぬパパの言葉は死刑宣告のようで、僕は動揺した。こういうとき、パパは本当に酷いと思う。
「モーレックは、死んじゃうの?」
 マリオが顔面蒼白になってママに聞いた。
 妹のハーピーはフラフラと僕から離れて崩れ折れ、早くも大粒の涙を浮かべて震えだした。その横で、ラルフが険しい顔
でうつむく。
 そうか、僕はやっぱり……死ぬのか。僕はいよいよ死を覚悟した。
 でも不思議と、ママの腕の中で温もりを感じている今は、さっきより死ぬのを恐いとは思わなかった。
「ドラコ、子どもたちを恐がらせないで」
 ママがパパに怒った。死の間に直面している僕らを前に、パパだけが笑いを噛み殺したような顔をしている。もう一度言
おう。こういうとき、パパは本当に酷いと思う。
「みんな大丈夫よ。噛まれたのはどれくらい前のこと?」
 ママは僕を優しくさすりながら、パパのしている高そうなネクタイを指差して、それをこっちに寄こせとパパに手で合図
した。
 パパはスルスルとネクタイをほどくと、それをママに手渡した。
 ラルフが腕時計を見て答える。
「噛まれたのは、十分くらい前だよ」
 ラルフはつい最近、時計を読めるようになった。最初はお洒落で身に着けていただけだったのに、今ではもうそれを活用
できるらしい。
「それなら、すぐに毒抜きをして、病院で抗生物質を打ってもらえば大丈夫。モーレックが噛まれたのはおそらく、カーペ
ットバイパーという凶暴な毒蛇ね。死亡率は三四パーセント。猛毒だけど、処置が早ければ助かるのよ。大丈夫、パパも昔
噛まれたことがある蛇なんだから、平気よ」
 言いながら、ママはパパのネクタイで、僕の腕の付け根を力いっぱい縛った。
「パパも?」
「懐かしい思い出だな」
 パパはスーツの胸元からナイフを取り出して、それをジッポで炙りながら、苦笑いした。
「あれはどん底の日だった。仲間に裏切られ、逃げ込んだ森で蛇に噛まれて、酷い目にあったんだ。いよいよ本当に死ぬか
と思ったときに、ちょうどこの場所で、アガサに初めて出会ったんだ。昔のママは恐くて、最初は魔女かと思ったぜ……」
「魔女!? 命を助けてあげようとしたのに、あなたそんな風に思ってたわけ?」
「ゴホン、まあ、そうだな。つまり、『容赦なく』命を助けられた。本当、あれは最悪の日だった……。でも今思えば、あ
れが最高の人生の始まりの日でもあったのさ。もしかしたら、モーレックにもそんな日が来たのかも知れないな」
 パパがニヤリと笑って、煙の上がるナイフを僕の腕に近付けてきた。
 ママが僕の腕を抑えつける。
「何するつもり?」
 僕はすごく嫌な予感がしてパパとママを見た。
 怯える僕。
「毒抜きをするのよ。噛まれた所をナイフで切り開いて、血を吸い出すの。そうしないと助からないわ。ほら、ママにしっ
かりつかまって、ちょっとの我慢だから。ほら、いい子ね」
 さらりと言ってのけたママの言葉に、関係のないハーピーが悲鳴を上げて泣き出した。
 弟たちは体を硬直させて青ざめ、パパの持つナイフの先をジッと凝視している。
 僕はゴクリと唾を呑みこんだ。
「ここ、ママの腕を噛んで。歯を食いしばり過ぎて、奥歯を砕いてしまわないようにするの」
 ママは僕の体をうつ伏せにすると、左腕を僕の口に噛ませた。僕はされるがままになって目を閉じた。そうしてこの時、
僕は、パパがママのことを「魔女」と言った意味を理解した。きっとママは、パパにも昔、僕にしているのと同じことをし
たのだろう。
 僕はまだ涙ぐんだ。
「いい子だ」
 僕の右腕が持ち上げられた。その瞬間、パパは素早く『容赦なく』やってのけた。
「んん!」
 僕はビクッと震えた。
 金属が肌に触れるのを感じるよりも先に、痛みだけがサッと僕の傷口を駆け抜けた。
 パパは僕の腕を強く握って傷口から血を絞り出すと、口を当てて吸いだした。ジンジンと骨にまで響く激痛に反射的に腕
を引っ込めようとする僕を、パパとママがしっかり抑えつけるので、僕は身動きすることができなかった。
 僕の腕から毒を吸い出して吐きだす、という大胆なパパの行為が何度も繰り返されるので、僕の目頭が熱くなった。
 生きると言うことは、痛いということなのかもしれない。僕がそんな悟りの境地を開きかけたとき、パパが血を吸い出す
のをやめた。
 僕の腕からどす黒い血が出なくなるのを確認したパパは、口元をぬぐって顔を上げた。
「よく我慢したな、博士」
「いい子ね」
 ママは僕から手を放すと、たちまち僕を抱き寄せて、頭やおでこやほっぺに、何度も続けてキスをしてきた。
 それから僕は超特急で病院に連れて行かれた。
 帰りの車の中でママとパパに挟まれて、僕は急に眠たくなった気がした。腕の痺れも吐き気も、今ではスーっと消えて、
あのゾッとする寒さも消えていた。

 灰色の空がピカッと光って、大雨がどっと降って来た。
――それはちょうど、傷ついたドラコが初めてアガサに出会ったのと同じ日のように。暗くジメジメした夜の闇が迫る頃。
「見て、モーレックが寝ちゃったわ」
「今日は、よく頑張ったからな。起こさないように帰ろう」
「そうね、この子が無事で本当によかった」
 ママが笑った。もしかしたら泣いているのかもしれない、と僕は薄れゆく意思の中でぼんやり思う。
「今日は、モーレックにとって本当に災難な日だったと思うわ」
「幸せはそんなどん底の日から始まるもんさ、俺もそうだった」
 パパが僕の頭に手をのせて、誇らしげに笑った。



 大雨が続くロサンゼルス郊外。ずぶ濡れて泥だらけになったヤコブソン一家は、手に手をとって彼らの住む山奥の城に帰
って行った。
 暗いどん底を飛び越えて幸せが始まる場所。
 それは晴れの日も雨の日も変わらずに家族が集う場所なのだな、と、モーレックは思った。
 モーレックはこの日のことを決して忘れない。兄妹四人で見た小さな虹や、森で蛇に噛まれて恐い思いをしたこと。大雨
の中で笑ったママの顔も、パパの大きな手がモーレックの頭を撫でたことも。
 それはモーレックの中で永遠に、確かな家族の記憶、――確かに愛された記憶としてとどまり続けるだろう。
 僕はパパとママの息子、モーレック・ヤコブソンだ。



ヤコブソン一家の四兄妹(完)