恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-14


 ドラコたちが古城に帰ってきて、ちょうど一か月目を迎えた晩のこと。
 モーレックがこの世を去る気配は全く感じられないが、万が一ということもあるかもしれないので、最近はドラコは早めに仕事を切り上げて古城に帰ってくる。
 ストラダーレを車庫に入れて、キッチンから中に入ると、アガサが夕飯の準備をしているところだった。
「モーレックは?」
「リビングのサークルで寝てる。モーニングには、夜ご飯をあげておいたからね」
「助かる」
 蒸し暑い夜だったので、スーツジャケットを脱いでネクタイを緩め、リビングで少し涼もうと思ったら、サークルが倒れていて中にいるはずのモーレックの姿が見当たらなかった。いつもの通り、ベビースピーカーを傍に置いているから、泣き声がしたならアガサが気づいたはずだ。
 最近、モーレックは掴まり立ちができるようになってきているから、ついにベビーサークルを抜け出したのだな、と思った。
 気配を探って部屋を見回すと、暖炉の隣の本棚の下から微かな床ずれの音がした。
 ソファーを回って覗き込んでみると、思った通り、モーレックはそこにいた。アガサが服を脱がせたのだろう。モーレックは肌着のロンパース姿で、パン生地のように丸みを帯びた腕や足を剥き出しにして、涼しそうな恰好で床の上に座っていた。

「そこで何をしている?」
 ドラコが声をかけると、モーレックはくるりと振り返って、無邪気に悪だくみをしているような表情を浮かべた。
「サークルから抜け出してこんなところまで這ってきてしまって、……ママに見つかったら怒られるぞ」
 モーレックがしきりに、四つ足の本棚の下を気にしているようなので、ドラコも床の上に仰向けになって、覗いてみた。
「可哀そうに、モーニングじゃないか」
 青みがかった灰色の猫が、狂気の赤ん坊に追い詰められて、本棚の下の奥ですっかり丸くなって、警戒してこちらを見ている。
「モー……」
 まだ自由に発語できないモーレックは、モーニングのことをそう呼んだ。
「こら、あまり追い詰めると引っ搔かれるぞ」
 モーレックはどうしてもモーニングに触りたいらしく、本棚の下に手を入れて、彼女を引っ張り出そうと試みているらしいが、赤ん坊の手が短いので届く様子は微塵もない。
 
 猫に手が届かないことを悟り、本棚の下を覗いて「モー!」、と呼びかけるが、猫はシャー!、と威嚇して動かない。
 そんな膠着状態を、ドラコは床に仰向けになったまま見守った。
 背中に伝わる石のごつごつした床が、冷たくて気持ちがいい。
 モーレックは作戦をかえ、ドラコに話しかけてきた。多分、猫を引っ張り出すように言っているのだと思う。
「いやだよ、俺が引っ搔かれる。放っておいてやれよ」
 尚もモーレックはドラコの説得を試みて、粘り強く話しかけてくる。本棚の下を、小さな指でさして。
 だが、ドラコは断る。
 すると、モーレックはまた作戦を変えたようで、今度はドラコのネクタイを引っ張って来た。
「まさか、これでモーニングをおびき出そうというつもりか?」
 赤ん坊は、そうだ、と、頷く。少なくともドラコにはそのように見えた。
 だから、ドラコは首のところの輪っかを残したままネクタイを首から外し、それをモーレックに差し出した。
 輪っかの部分には、猫のお気に入りのオモチャである毛糸玉を結び付けてやる。

「言っておくけど、俺がお前に協力するのは今回限りだからな。俺はモーニングの飼い主だから、本当なら彼女の味方になってやらなきゃならないんだ」

 嬉々として赤ん坊は毛糸玉付きのネクタイを受け取ると、それを本棚の下に、不器用に押し込んだ。
 猫が本気の怒りを露わにして喉を太く鳴らす、その唸り声にもモーレックは怯むことはない。
 奥の奥まで毛糸玉を押し込んでから、モーレックが勢いよくネクタイの先を引くと、ついに我慢の限界に達した猫が電光石火のごとく飛び出してきて、モーレックの胸に一撃を加えて押し倒した。赤ん坊はあえなく仰向けに倒れ、猫はそのままドラコの胸に飛び込んで捕まえられる。
 ほらみたことか。
 猫を怒らせて、手痛いしっぺ返しを受けたのだ。
 泣き出すかな、と思ったが、意外にもモーレックはキャッキャと笑って、むくりと起き上がった。

 そうしてドラコが胸の上に抱きかかえているネコのところまでにじり寄って来ると、小さな手が、モーニングの毛に触れた。

「モー、だーい、すき」

 モーレックは猫の背中に顔を落として、どうやら、キスをしたようだ。
 おそらくは、ママであるアガサがいつもモーレックにするのと同じように。

 だが、ドラコの上に抱えられた猫はフーフーいって怒っている。
 完全なる一方通行な愛に、ドラコは思わず笑ってしまう。

「こうやって、優しく撫でてやるんだよ。そっと」
 ドラコがモーニングの背中を撫でて見せると、モーレックもそれに従った。
「怖がらせないように、そっと触れてやるんだ」
 猫は大人しくなったかに見えたが、やはりモーレックの手の加減がまだ少し強いと見えて、ドラコが腕をゆるめると素早く走り去って行ってしまった。
「上手じゃないかモーレック。だが、まだまだだな」
 ドラコが笑って、猫の代わりに、今度はモーレックを自分の上に抱き上げる。
 赤ん坊を胸の上に座らせて、自分の指を握らせてあやしていると、不意にこの小さな存在を愛おしく感じている自分に気づく。
 指先から伝わるモーレックの体温が、とても儚げで、温かく思える。

「ご飯ができたわよ」
 気づくと、アガサが床の上のドラコとモーレックを見下ろしていた。
 勝手にサークルから出したと怒られるかと思ったが、アガサはモーレックを抱き上げると、ドラコにも優しく触れて、起き上がるときに彼の頬にキスをしてくれた。
「二人で新しい遊びを見つけたのかもしれないけど、モーニングにとっては大迷惑でしょうね。もう、さっきみたいなイタズラをしちゃダメよ」
 すかさずモーレックが何か文句を言うが、アガサはそれを切り捨てる。
「いいえ、ダメです」

 夕飯はキッチンの奥のダイニングテーブルで、3人で一緒に食べた。
 モーレックが古城に来てから、アガサは朝昼晩の食事を規則正しく作ってくれるようになり、なるべく3人で揃って食事をするようにしているようだった。
 いつの間にか当たり前になりつつあるこの習慣を、ドラコは今になって、奇跡みたいだな、と思うようになる。
 この奇跡みたいな平穏な時間が、いつまで続くのだろうと、夜眠る度に、明日が来るのが楽しみで、同時に、恐ろしくも感じる。
 そのたびにドラコは、アガサの優しいララバイを思い浮かべて眠りにつくのだった。





第4話END (第5話につづく)